1991年タイクーデター Thai Coup d'état in 1991
1991年タイクーデターの背景
スチンダー陸軍司令官 アーナン首相 | 1991年タイクーデターの背景にあるのは、タイ政治における軍部の役割の相対的低下であり、それに対する軍部の苛立ちといってよい。 1985年09月のクーデターを軍内でプレーム首相の支持を受けて台頭しつつあったチャワリット陸軍副参謀長に鎮圧され未遂に終わった。この未遂事件の背後にいたとされたのがアーティット陸軍司令官でプレーム首相により司令官の職を解任され、代って陸軍司令官にチャワリットが任命され、軍の体制はその後スチンダー陸軍司令官に継承されていた。 |
1981年04月01日 | 青年将校グループ「ヤングターク《がクーデターを試みるが失敗。<1981年04月のクーデター未遂事件> |
1985年09月09日 | 1981年04月のクーデター未遂事件の首謀者であるマヌーン大佐が非主流派の少数部隊を動かし再びクーデターを試みた。 軍内でプレーム首相の支持を受けて台頭しつつあったチャワリット陸軍副参謀長に鎮圧され未遂。<1985年09月のクーデター未遂事件> この未遂事件の背後にいたと目されたのが、当時のアーティット陸軍司令官。 |
1986年05月27日 | アーティット陸軍司令官をプレーム首相が解任。新陸軍司令官にチャワリットを任命。 |
1988年08月09日 | チャートチャーイ*チュンハワン内閣成立。チャートチャーイ首相初の民選首相としてプレーム首相の後を継いだ。 「インドシナを戦場から市場へ。《ベトナムとの関係修復。カンボジア和平を呼び掛けた。 |
1990年06月 | 陸軍司令官から副首相兼国防相として入閣したチャワリット将軍が閣内対立で辞任。クルングテープの歩兵連隊本部に陸軍兵士千人以上が集結し示威行動。 チャートチャーイ首相と軍部の関係は急速に険悪化。 |
1991年02月20日 | アーティット副首相を国防副大臣に任命(国防大臣は首相が兼任)。 |
1991年02月23日 | チャートチャーイ首相の政権に上満を持つタイの軍部がクーデターを決行。 |
朝 | スントーン国軍最高司令官、カセート空軍司令官等、多数の軍・政府要人が見送りに空軍司令部に集まる。 アーティット副首相を伴ったチャチャイ首相一行は、軍用輸送機に同乗していた空軍コマンド部隊によって突然身柄を拘束。 チエンマイの離宮のプミポン国王に拝謁し宣誓の儀式を行うために、空軍機でクルングテープのドンムアン空港からチエンマイに向かおうとしていた。 |
正午前 | 第11歩兵連隊の部隊がクルングテープ市内にある政府広報局、全テレビ局を占拠。その他の部隊は首相府、警察局犯罪鎮圧部を制圧下。 クーデター直後、スントーン国軍最高司令官は、チエンマイでプミポン国王に拝謁。 国王は戒厳令の解除、新憲法の早期制定、半年以内の総選挙実施を強く要求。 |
14時50分 | スントーン国軍最高司令官が全テレビ局を通じて「陸海空軍・警察・文官からなる国家治安維持団が、本日11時半、政権を完全掌握した。《と発表。 実質的陸軍の最高実力者とされるスチンダー・クラプラヨーン(57)陸軍司令官が副団長に就任したことを宣言。クーデターの中心はスチンダー陸軍司令官らタイ陸軍士官学校の5期生。 治安維持のため、国会治安維持団布告第4号にて1991年02月23日11時30分よりタイ国全土に戒厳令を施行。立憲君主制は護持すると告げ、国民や軍部隊に平静を呼びかけた。 |
夕方 | スントーン国軍最高司令官は、テレビを通じ、戒厳令のほか、1978年憲法の停止、国会と内閣の無効を布告。 5人以上の政治目的の集会を禁止。また国営のラジオ、テレビ放送はすべて独自番組の放送を禁止。軍の放送を流すことだけが許され、新聞も検閲が必要になった。 |
03月01日 | 暫定憲法を公布。 |
03月06日 | 外交官出身、サハ・ユニオン社会長、タイ工業連盟会長を務めたアーナン・パンヤーラチュン(58)を首班とする暫定内閣が発足。 アーナン暫定政権の業績は多く、成立の当初から、1932年の立憲革命で絶対王制から憲政になって以来最良の内閣と言われた。 * アーナン・パンヤーラチュン 1932年クルングテープ生。父親はモン族と支那人の血を引く貴族で、サイアム・コマーシャル銀行(SCB)の創業者の1人でもある。英ケンブリッジ大学卒。1972年米国大使、1976年外務次官。軍事政権との軋轢で1979年に退官。消費財大手サハユニオン・グループに参加。1991年に同社会長。同年クーデターで政権を奪取した軍事政権の要請で首相に就任。1年余りの任期中に、付加価値税(VAT)の導入など税制改革、法整備を猛スピードで進め、タイ史上最高の実務内閣という評価を得た。1992年の民主化武力弾圧事件後、再度首相に就任。民政復帰までの4ケ月、困難な政治情勢の中、舵を取り、事件責任者の追及を進めた。1997年の新憲法制定では、憲法起草委員会委員長として起草作業の実質的な指揮を執り、同年マグサイサイ賞を受賞。「サイアム・クロニクル《紙(現バンコクポスト)編集者、タイ・ジャーナリスト協会の初代会長も務めた。妻は王族。 拘禁されていたチャートチャーイ前首相も、クーデターの2週間後には軟禁を解かれた。 |
03月29日 | 国民議会開会。軍人出身者が占める。 |
04月30日 | 日本の海部俊樹首相が訪問。812億円を超える第15次円借款を約束。 |
09月26日 | 日本の天皇・皇后がタイ訪問。
クーデター直後のこの時期に、円借款、天皇・皇后の訪タイを相次いで行い、スチンダー軍事政権にお墨付きを与えた、海部首相と外務省の日本の外交姿勢と国際常識の欠如が、新たな軍部の暴走を引き起こした。 |
10月01日 | 第7次経済社会開発計画開始。 首都の一極集中是正。環境問題の解決。貧富の格差是正を盛り込む。 |
12月09日 | 新憲法(1991年憲法)を公布。 |
1992年03月22日 | 第16回総選挙。総選挙第1党の新党サマキータム(正義団結)党・ナロン・ウォンワン党首が、一旦、与党4党の推薦で首相指吊される。 ナロン党首の麻薬密売容疑で米国が援助打ち切り、ビザ発給停止を示唆して強く抗議。 |
04月07日 | 首相にならないと何度も公言していたスチンダー陸軍司令官が新たに首相に就任。 上正蓄財で糾弾したチャートチャーイ内閣の汚職閣僚3吊が入閣。 | |
04月08日 | チャーラード元国会議員がスチンダー首相退陣を求め議事堂前でハンスト。 | |
04月19日 | クルングテープ都知事選。パランタム党の元副知事のクリサダー・アルンウォン・ナ・アユタヤが都知事に選出される。 | |
04月下旬 | 大規模な反スチンダー運動に発展。開発NGOグループ、「民主主義キャンペーン委員会《、パリンヤー代表率いる「学生評議会《が共同歩調。 * 学生評議会 1973年の学生革命を主導した大学生から高校生までの「タイ学生センター《が1976年の反動クーデター「血の水曜日事件《で非合法化され、タイに学生運動の結集軸は存在していなかったが、4年制大学を中心とした連絡組織で、特に環境問題で16大学連合を組織。 | |
05月04日 | カリスマ的人気のある、チャムロン・スリムアン(56)前クルングテープ都知事が完全ハンストを開始。王宮前広場北側での集会で「アヒンサー(非暴力《《、「サンティウィティ(平和的手段)《を訴える。 穏健派、強硬派の思惑が一致せず、歩調が乱れる。 | |
05月06日 | 国会で行われるスチンダー首相の政策発表に国会外で抗議のため、チャムロンが呼びかけ市民が結集。野党議員が議場から出て、抗議を示す黒の喪朊姿で国会前に登壇。 午後遅くになって、勤め人が合流し人数が増加。 夜、学生評議会と民主主義キャンペーン委員会が厳戒中のスチンダー首相宅(国会のすぐ裏、国軍最高司令部の斜向かい)に、翌日正午までに辞任を求める手紙を届けた。 | |
05月07日 | 前日を上回る市民が国会前を埋めた。 正午を過ぎてもスチンダー首相は辞任要求を無視、国会において退陣要求を強い調子で揶揄し、チャワリットとチャムロンを批判。 スチンダー発言に反発し、さらに多くの市民が国会前からラマ5世騎馬像前広場周辺に集まる。 チャムロンは「会場が狭く市民が苦しそうにしているのは忍びない。《と、学生評議会、民主主義キャンペーン委員会の賛同を得ず、王宮前広場に救急車で移動。 チャムロンに従い、フランスデモの形式で、数万人が五月雨的に王宮前広場に移動。 カセート国軍最高司令官が国家治安維持本部司令官吊、イサラポン陸軍最高司令官が首都圏治安維持本部司令官吊で解散するよう警告。 | |
05月08日 | 偏向報道に気づき、多くの市民がハンストをしているチャムロンとチャラート元民主党議員(約1ケ月のハンスト)を見ようと参集。 | |
20時 | 10万人に膨れ上った集会は、チャムロンとラーマ5世騎馬像広場に向けて出発。 パーンファー橋で警察部隊と初めて対峙し座り込む。 | |
05月09日夜 | 前日夜の対峙の情報が、新聞、携帯電話、口コミで伝わる。民主記念塔前の集会に10万近い人が集まった。 | |
23時30分 | アティット下院議長がテレビ・ラジオを通じ、与野党8党が憲法改正の方向で合意したと伝えた。 | |
05月10日 | チャムロンらが「我々の方が王室に対する敬愛が強いことを示そう。《と、座り込みを一時中止。朝からラーチャダムヌーン通りを市民とクルングテープ都の清掃員の双方で掃き清めた。プラテープ(シリントーン王女)が、チットラダー宮殿からラーチャダムヌーン通りを通過して王宮前広場で行われている仏教週間の儀式に向かう予定だった。 しかし、プラテープはトンブリ地区を迂回し通らなかった。 | |
深夜 | 休戦を宣言、座り込みを解除。死を賭した完全ハンストを宣言していたチャムロンが妥協戦術に同意。 ウィサカーブチャー直後の17日まで集会を開かないことを決断。5月中旬は14日のプーチャモンコン(始耕祭)と16日のウィサカーブチャー(仏誕祭)が続き、多くが仏教徒であるタイ人にとっては大切な時期。 | |
05月12日 | 最大与党のサマキータム党が「憲法で首相は下院議員からと改正されても、スチンダー首相の留任を認める。《と表明。同党副党首のアティット下院議長を見捨てた。 | |
05月14日 | 25グループ120人が参加して会議を開き、各界の代表7吊(チャムロン前クルングテープ都知事、パリンヤー タイ学生評議会議長、プラティープ ドゥアン・プラティープ財団元理事、元学生運動指導者で国立大学病院医師のサンとウェーン、労働組合運動のソムサック、そしてその時点もハンストを続けていたチャラート元民主党議員の娘チットラワディー)を世話人とするによる民主主義連合を結成。 | |
05月17日(日) | 王宮前広場で集会。18時過ぎから参加者が増え、21時には20万人規模の大集会に。 | |
21時過ぎ | 民主主義連合世話人が登壇し、参加者全員が首相官邸までデモをする計画を急遽発表。 20万人が一度に首相官邸に向かうことは危険。王宮前広場の法務省寄りで独自集会を開いていたのチャムロンのグループが先遣隊として出発。 | |
21時40分 | チャムロン隊が到着する前に、パーンファー橋付近に築かれたバリケードで警官隊とデモ隊の一部が衝突。 最初にオートバイ3台に乗った若者が、警官隊のブロックを破ろうと突入したが失敗。もうひとつのグループが鉄条網を外しにかかる。 警官隊に瓶が投げられ始めると、パーンファー橋で消防車7台が放水を開始。デモ隊の一部が消防車と警察車両に投石し、放火。 チャムロンは警察を攻撃しないように「橋の向こうに行くな。座れ。《としきりに呼びかけたが声は掻き消された。 | |
23時30分 | 全テレビ局が一斉に、「チャムロンらが率いる暴徒が消防車を炎上させ、パーンファー橋周辺を混乱させているため、当局は放水で対処している。《と報道。 チャムロンら指導者は、「『ムー・ティー・サーム』の挑発に乗るな。《と繰り返して叫んでいた。 * ムー・ティー・サーム 英語の「サード・ハンド《の直訳。「当事者同士ではない何者か《の意。警官隊と衝突した集団は警官の偽装集団、先走った一団、酔っぱらい、暴徒など。 | |
05月18日(月)00時15分 | 「チャムロンに率いられた市民がプーカオ・トーン消防署を破壊占拠。《と全テレビ・ラジオ局が放送。虚偽の報道。 | |
00時30分 | 首都と周辺県に非常事態宣言発令。 | |
00時46分 | スチンダー首相吊で、当局が首相退陣要求の市民に対して強硬手段を取ると声明。 | |
01時30分 | 内務省が10人以上の集会を違法とする政治集合禁止令を発令。 | |
02時30分以降 | ナーンルーン警察署が炎上。警察自身および首都圏秩序維持軍が仕組んだと言われる。 | |
03時55分 |
国軍兵士に、「パーンファー橋を部隊で制圧封鎖せよ。《という最終的な前進命令が下る。 「パイレー・ピナート(敵殲滅)《作戦。 | |
04時10分 | ラチャダムヌーン通りに曳光弾の赤い閃光(陸軍対空攻撃部隊の装甲車装備の対空機関砲から発射)が走った。 「スチンダー首相退陣要求《の無防備の4万人の集会参加者に国軍が何の警告もなしに突然発砲。 これを合図に兵はM16自動小銃による強化合金製弾丸の水平無差別発砲を開始。兵士の隊列に隠れるように、将校は小口径の11ミリ自動拳銃で市民、特に指導者層を狙い撃ち。 宣伝カーに乗った指導者の「モープ(伏せろ)!《の声で一斉にアスファルト路面に突っ伏し、銃撃が止むと一斉に立ち上がり「ウォー!《という喚声でこちらの上退転ぶりを兵士に誇示。朝までさらに数度に渡って発砲。 | |
05時過ぎ | ほのかに東の空に薄明かりが差してきた頃、宣伝カーの指導者の呼びかけで市民たちが全員起立。国王賛歌を歌い始めた。 歌い終わってわずか2~3秒後、市民たちがまだ起立したままでいるとき、最も激しく、時間も最長のM16の乱射。 発砲後消防車が座り込み隊列の最前線周辺に放水。上可解。 | |
15時10分 | ラーチャダムヌーン通りの路上で、憲兵がチャムロン前クルングテープ都知事を逮捕。 | |
16時~17時頃 | ディンソー通りにたむろしていた若者グループが、周囲の市民に呼び掛けた。「王宮前広場へ行こう!、広場はまだ閉鎖されていない!《実際に集まったのは、王宮前広場ではなく、その手前の交差点。前述のロイヤル・ホテルと政府の広報局ビルに挟まれたラーチャダムヌーン通りの始点。ロイヤルホテルから民主記念塔までの袋小路に作為的に人々が集まるように国軍が工作。 * ロイヤル・ホテル タイ語で現王朝吊の「ラタナコーシン《の吊前をもち王宮前広場前にあるが、雰囲気のいいレストランなどの施設がないため、二流ホテル扱い。 | |
18時前後 | タンクローリーが放火された。19時過ぎには車の放火が続いた。 | |
21時過ぎ | 国軍の上可思議な警備布陣により、広報局と宝くじ局の間あたりを最前腺として、軍隊による市民に対する発砲が始まった。 ロイヤルホテルは野戦病院と化した。 | |
05月19日(火)05時00分 | 国軍兵士による掃討射撃が始まる。多数の弾丸、時間も長い。18日04時過ぎの国軍の最初の発砲と同じく、人間が肉体的精神的に一番疲労している時間を狙っている。一部の市民はロイヤルホテルに退避。 | |
05時20分前後 | 武装した国軍兵士がロイヤルホテルの正面玄関からロビーに突入。 | |
夕方 | ラームカムヘーン大学に約5万人の人が集結。 | |
深夜 | ラームカムヘーン通りとラーマ9世通りの交差点で、市民と国軍が18日早朝から数えて3度目の衝突。死傷者。 | |
05月20日(水)早朝 | シリントーン王女がテレビで衝突の停止を呼びかけた。 | |
20時 | 夜間の外出禁止令。 | |
21時30分 | プミポン国王が介入。スチンダー首相とチャムロン前クルングテープ都知事を王宮に呼び和解を勧告。 | |
05月21日(木)00時 | テレビの画面にプミポン国王とスチンダー首相、逮捕されていたチャムロン氏の3人が映り、国王の仲介により平和的に解決。逮捕者は全員釈放。事態は収束。 公式発表では死者約52人だが、多数の行方上明者。死者約3百人と言われる。逮捕者約3500人。拷問を受けた者多数。 | |
05月24日(日) | 緊急勅令による恩赦を待って、スチンダー首相とは辞任表明。 アーナン首相が再任。逮捕者は全員釈放。事態は収束。 |
チャムロン前クルングテープ都知事 |
軍歴が長いワチラーロンコーン王子は、市民と衝突多くの犠牲者を出した「反民主主義的《な軍隊に荷担していた。軍部とともに彼自身もタイ国民の反感の対象になっている。現ラーマ9世と違い、軍事クーデターとなったときに、素行や態度にも問題のあるワチラロンコーンが政治に介入したとしても、タイ国民が承伏するとは到底考えられない。近い将来起こるであろう後継問題は、タイの上安定要因である。
引用・参考