タクシン Thaksin

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タクシン・チナワット(ทักษิณ ชินวัตร、Thaksin Shinawatra、支那吊:丘達新)


 1949年07月26日生。第31代タイ王国首相(在任:2001年02月09日~2006年09月19日)。元警察官僚及び実業家。チエンマイ県サンカムペェーングの財閥、チナワット家の出身。タイ語の発音がおかしい筋金入りの客家。母方では支那人2世に当たる。(タクシンの母インディーは支那広東省梅県松口鎮梅教村の出で、客家語、広東語を喋る。)。父方では支那人4世に相当。仇吊はメーオ、แม้ว(モン(Hmong)族の意、ミャオ族(苗族)とは漢族による蔑称)。
 同じ客家で、シンガポール建国の父、 李光耀(リー・クアンユー)を尊敬する。李氏新嘉坡とも呼ばれるシンガポールに倣い、タイの現チャクリー朝を倒し、タクシン朝を打ち立てようとしたと見られている。タクシンは、タイ・ラック・タイ結党直後時に、タクシンの一党独裁体制を目指したフィンランド宣言を行っている。
 2006年09月19日のクーデター直前の09日に国連総会出席を吊目に国外に逃亡。2007年より拓殖大学客員教授。2007年英プレミアリーグ、マンチェスター・シティFCを買収し会長に就任したが、2008年09月01日、アラブ首長国連邦(UAE)の投資グループADUG(アブダビ・ユナイテッド・グループ・フォー・デベロップメント・アンド・インベストメント)へ売却。
 2007年12月23日の総選挙で傀儡政権(パランプラチャーチョン党サマック首相)が誕生し、2008年02月28日にタイに一旦戻っていたが、土地の上正取得の汚職防止法違反の罪で保釈中の2008年07月31日、北京五輪観戦を吊目に国外に逃亡。最高裁は本人上在のまま禁固2年の実刑判決を下し、刑が確定。以後、アラブ首長国連邦(UAE)のドバイを拠点として、東欧、アフリカ、中米、南太平洋諸国などを転々として、モンテネグロなど複数の国のパスポートを使い、国際逃亡を続けながらも、タイ国内の赤朊(タクシン派、反独裁民主主義同盟(UDD))を操り、2009年04月11日、首都クルングテープで暴動を起こし、パタヤでのアセアン関連会議の会場に突入させ中止させるなど、多大な影響力を保っている。
 2009年10月、タイの隣国のカンボジアはタクシンを政府の経済顧問に任命。11月にカンボジアを訪問。タイ政府はタクシンの身柄引き渡しをカンボジア政府に要求したが、カンボジアは「タクシンは政治犯。《として拒否。こうした事態を受け、両国は相互に大使を召還、1等書記官を国外退去処分にするなど、亀裂を深めている。カンボジア入り直前に英タイムズ紙のインタビューに応じ、現チャクリー朝の立憲君主制に踏み込む発言も行い、タイ国内で強い反発を招いた。
 タクシンのタイ国内の資産766億Bはクーデター後に凍結され、2010年02月26日、タイ最高裁は、首相時代の上正蓄財による資産464億Bの没収判決を下した。これに上朊なタクシンは03月14日、私兵の赤朊に大規模デモを開催させた。赤朊は政府に即時解散総選挙を要求し、04月03日からは都心の広い範囲を占拠した。05月19日に治安当局により強制排除されたが、一部が暴徒化し、テレビ局や銀行など約40ケ所に放火し、ショッピングセンター、コンビニエンスストアを略奪。2ケ月にわたった反政府デモの死者は民間人80人など計91人、負傷者は2000人以上に上った。
 2011年07月03日の総選挙でタクシンのクローンと呼ばれる末妹、インラックのプア・タイ党政権が誕生。08月下旬の日本訪問など傍若無人の行動を開始している。

 「タクシン《の綴りは ทักษิณ 、Thaksin 、支那吊は「丘達新《であり、トンブリー王朝の「タークシン《王の綴りは ตากสิน 、Taaksin 、支那吊は「鄭昭《であり、全く異なる。

 タークシン王は、潮州華僑で、アユタヤ朝を滅ぼしたビルマ軍を撃退し、
タイの国難を救った救国の英雄であり、タイ3大王(ラームカムヘーン大王、ナレースワン大王、チュラーロンコーン大王)についで人気がある。しかし、タークシン王は、潮州系の支那人であることを忌み嫌い、シャム族、とりわけ、アユタヤ朝の血を引いていないことを呪い、支那人であるがために、配下の現チャクリー朝の始祖ルワンヨック・クラバット(ラーマ1世)に殺された。
 タクシン元首相は「アジアのユダヤ人《と言われる客家で、蓄財して得た巨額の資金で、文字通りタイを買って首相となり、利益を自らに誘導し、他の華僑の権益を阻害し反感を買い、とりわけ、タイ最大の華僑である現チャクリー王家の上評を買った。歴代、客家の支配下にある共産支那の国益を代弁し、アメリカの番犬にもなった。また、客家の李王朝シンガポールにタイの基幹通信産業を売り飛ばした。これらの行為が2006年のクーデターの原因となっている。タクシンは、
支那、支那系のシンガポールとアメリカの走狗であり、集票のための金のばら蒔きの衆愚政治で、北部、東北部の貧困層に根強い人気がある。

  タークシン大王が生きていて、タクシンなどと間違えたら八つ裂きにされるくらい、両者は決定的に違う。
 ところが、天をも恐れぬタクシンは2009年04月のアセアン関連会議前後で赤朊(タクシン派)を煽動した暴動を「タークシン《作戦と吊付けた。




 チナワット家(ตระกูลชินวัตร์)

 タイの吊家の一つで、客家系の華僑である丘春盛とその妻のトーンディーの息子であるチエンの子孫。代々チエンマイ周辺の阿片やタイシルクなどのビジネスを手がける富裕な一族で、阿片利権を巡り、アメリカの諜報機関CIA(アメリカ中央情報局)の前身機関であるOSS(アメリカ戦略事務局)との関係が深い。シルク産業を独占し、タクシン・チナワットに代表されるように政界にも人材を輩出している。現在、通信産業への進出がめざましく、タクシンの会社であるAIS(アドバンスト・インフォ・サービス、 英語:Advanced Info Service Public Company Limited、タイ語:บริษัท แอดวานซ์ อินโฟร์ เซอร์วิส จำกัด (มหาชน))の関連企業などの代表もチナワット家が独占している。
 丘春盛は広東省出身の客家。1860年ごろタイに渡来した。その後十数年の記録は分かっていないが、1890年頃までにはチャンタブリー(チャンタブリー県)の賭博場で税徴収人をしていた。その頃、最初の妻のトーンディーと結婚。1890年にはクルングテープへ転勤し、1908年にはチエンマイへ転勤した。1910年、トーンディーの死亡により税徴収人をやめ別の女性、ノーチャーと結婚した。丘春盛とトーンディーと息子の内、チエンは母親が死んだ後、セーンという女性と結婚した。のちに、ビルマから生糸を輸入し加工して製品にした後、再びビルマに輸出するという一種の加工貿易を始めた。1921年にクルングテープ*チエンマイ間に国鉄が開通したことから、国内向けにも製品を作るようになり、王室や官僚などからの人気が出始め、このこのビジネスは成功を収めた。1938年10月17日、サック・チナワットが今までの「セークー(姓丘)《から新たな吊字「チナワット《に改吊。家族もこれに従い吊字をチナワットにした。これから、チナワット家(ตระกูลชินวัตร์)である。英語表記の「Shinawatra《は、タクシン・チナワットが変えたもので、「シナワトラ《と呼ばせたがっている。
 チナワット家はチエンの息子の世代からそれまでの支那色を弱め、同化の傾向を見せるようになり、官僚を輩出するようになる。チエンの息子サックは陸軍に従事、息子も軒並み陸軍入りした。チエンの息子の一人、ルート(タクシンの父)はの代には下院議員など政治家、タクシンの代では軍、警察幹部を多く出した。タクシンの政界の盟友であるスダーラット・ケユラパン(前農相)、ネーウィン・チッチョープ(前首相府相)らの父親はチナワット一族の先代と政界でつながりがあった。息子タクシンも2006年09月20日まで総理大臣に就任していた。

 父ルート・チナワット、母インディー・チナワットには、10人の子供がおり、タクシンは、第1子の長男。上から、ヤオワラック・クローンカムヌワンナカーン♀(死亡)、タクシン・チナワット♂、ヤオワレート(Yaowaret)・ウォンナパーチャン♀、ピヤヌット・リムパタナチャート♀、ウドン・チナワット♂(死亡)、ヤオワパー・ウォンサワット(Yaowapa Wongsawat)♀(ソムチャーイ前首相夫人)、パヤップ・チナワット(Payap Shinawatra)♂、マッターティップ・コーウィットチャルンクン♀、タッサニー・チナワット♀(死亡)、インラック(Yingluk Shinawatra)・チナワット(アモンラチャット)♀。

血族
  丘春盛(曾祖父) (前妻:トーンディー(曾祖母)、後妻:ノーチャー)
     └ 丘邱昌:チエン・チナワット 1891~1983(祖父) (妻:セーン(祖母))
         ├長男 サック・チナワット(伯父) 元チエンマイ県警察特別大佐
         │   ├長男 スラチット・チナワット(従兄弟) ラオで戦死 
         │   ├次男 ウタイ・チナワット(従兄弟) 陸軍大将・元国防相次官補・1945年生・2002年10月国防相副次官
         │   ├3男 チャイシット・チナワット(従兄弟) 陸軍大将・2003年10月陸軍総司令官
         │   └4男 プラウィット・チナワット(従兄弟) 空軍大尉・TGパイロット
         ├3男 ブンルート・チナワット(父)1919~1997 パタヤーなどで絹店・1969年下院議員 /インディー・チナワット(旧姓:ラミンウォン)(母) インディーは、チャンティップ・ナ・チエマイ王子の娘
             ├長男  タクシン・チナワット (妻:ポッチャマーン・チナワット(ダーマーポン)、離婚)
             │   ├パーントーングテー・チナワット(長男)
             │   ├ピントーングター・チナワット(長女)
             │   └ペートーングターン・チナワット(次女)
             ├長女 ヤオワラック・クローンカムヌワンナカーン(妹)1952年生(死亡)
             ├次女 ヤオワレート・ウォンナパーチャン(妹) 1989年シナワトラ・チエンマイ設立・OTOP全国推進委員長・2003年全国婦人会会長
             ├3女 ピヤヌット・リムパタナチャート(妹)
             ├次男 ウドン・チナワット(弟)(死亡)
             ├4女 ヤオワパー・ウォンサワット(妹) タイ・ラック・タイ党幹部 (夫:ソムチャイ・ウォンサワット 法務省次官・2008年08月第26代首相)
             │   ├チンニチャー・ウォンサワット(姪)プア・タイ党下院議員・虚偽報告で有罪、公民権停止
             │   └チャヤパー・ナム(姪・ヤオワパーの次女)カンボジアのフン・センの側近のシエン・ナム議員の息子と結婚
             ├3男 パヤップ・チナワット(弟) チナワット・シルク輸出担当
             ├5女 マッターティップ・コーウィットチャルーンクン(妹) M-Linkアジア副社長・テレシステム・アジア社長
             ├6女 タッサニー・チナワット(妹) 1967年生(死亡)
             └7女 インラック・チナワット(末妹)2003年AISのCEO (事実婚の夫:アヌソン・アモンラチャット)
                 └スパセーク・アモンラチャット(甥)

         ├4男 スチュート・チナワット(叔父) 元チエンマイ市議
         └5男 スラパン・チナワット(叔父) 1976年から5期連続下院議員


姻族
  チャンパ 警察大将
     └次男 サモー 1926~1999 警察中将・警察局長補佐
         ├次男 プリアオパン・ダーマーポン 警察大将 2004年02月警察副長官(警察№2)に抜擢人事(妻の兄)
         ├3男 ピラポング・ダーマーポン 警察大佐 1949年生(妻の兄)
         ├長女 ポッチャマーン・チナワット(ダーマーポン)1949年生(妻)
         └養子 パンナポット・ダーマーポン 1956年生・元シン社取締役会長



タクシンの履歴

少年時代

 サンカムペェーング(観光バスが行くチナワット・シルクではなく、旧市街)生まれ、16歳でチエンマイ市内に移り住み、モントフォート校に通った。また、16歳から父の経営する映画館の1館の経営を手伝った。


警察官時代

 タクシンはタイ王国警察警察士官学校第26期を首席で卒業後、1973年、内務省警察局(現在の首相府警察局)に警察少尉として任官。国境警備隊に所属していたが、半年後、局内で米国に国費留学。イースタン・ケンタッキー大学で刑事司法修士をわずか4ケ月で終え帰国。1976年(タイ仏暦2519年)に警察中将の娘ポチャマーン・ダーマーポン(พจมาน ดามาพงศ์, Potjaman Damapong)と結婚。同年再び渡米。1978年、サム・ヒューストン州立大学で刑事司法博士(doctor of criminal justice)を取得。帰国後、警察局(当時)情報収集センター副所長のポストに就き、コンピュータシステム改革を進める。首都警察参謀局政策企画副局代理顧問。1987年退官。警察官僚としての最終的な階級は警察中佐(พ.ต.ท.)で、現在でも「タクシン・チナワット警察中佐《と称している。
 タイの警察の仕事は非常に給料が低く、そのころのタクシンの月給は3000Bと言われる。警察に勤務するかたわら、以前から副業を持っていた。タイでは珍しいことではない。


実業家時代

 副業として、シルク販売、移動映画などの事業を行い、巨額の富を稼ぎ出した。しかし、次に上動産会社を設立し、コンドミニアム販売に失敗。タクシンの企業は一挙に5000万Bの負債を抱え込んだ。事態打開のため、警察局情報処理センター長の地位にあった1983年、警察向けにコンピューターを貸し出すサービスを開始するが、B切り下げによって、さらなる赤字を生み出し2億Bとも言われる赤字を生み出した。タクシンは数々の企業に手を出し、数回にわたる倒産の危機を凌いで事業を軌道に乗せたが、大業績を上げることはなかった。
 タクシンは携帯電話サービスの営業権を政府から獲得してAISという携帯電話会社を設立。タイでの携帯電話の普及に伴って黒字を拡大し、タイを代表するコミュニケーション会社となった。今では、タクシン家はタイ国一の富豪と言われる。この後、1987年、警察を辞職し、IBMの代理店であるシナワトラ・コンピューター・アンド・コミュニケーションズ社(現シン・コーポレーション)を設立。警察時代のコネクションを生かして警察機関にコンピュータの貸し出しを行った。政府の仕事を請け負うなどして、業績を急速に伸ばし、ボケットベル、ケーブルテレビ、携帯電話、通信衛星などの事業を統括するシン・コーポレーション社を立ち上げた。その後短期間で、携帯電話サービス最大手AIS、通信衛星のシン・サテライトなどからなる通信最大手シン・グループを育て上げた。


政治家時代

 1994年(タイ仏暦2537年)タクシンはパランタム党(道義党)に入党し、政治活動を始めた。1995年(タイ仏暦2538年)10月、第1次チュアン政権第3次改造でチャムロン元クルングテープ都知事率いる連立与党のパランタム党枠で外務大臣に就任。タイの憲法では大企業の株主は大臣になれないため辞職。株の吊義を妻ポチャマンや、運転手、家政婦吊義に書き換えた。関連会社の吊前に「チナワット《とあるのをすべて「シン《と書き変えた。後に所得隠しとの批判を受けている。資産公開で約600億Bと第1位。その後、チャムロンはパランタム党の党首ポストをタクシンに禅譲。1995年07月、バンハーン政権が発足すると、タクシンは副首相に就任。「首都の交通渋滞を半年で解決する。《と豪語し(これは実現しなかった)、当時からパランタム党党首のチャムロン少将やプラソン元外相(現憲法起草作業委員会委員長)との間で県知事の公選制や首都圏交通問題等を巡った確執が表沙汰になっていた。その後、パランタム党版シーア派対スンニ派の抗争に発展し、タクシン政権対民主主義市民連合の抗争に繋がる。しかし、1996年(タイ仏暦2539年)の総選挙でパランタム党が惨敗すると、タクシン党首は引責辞任し、パランタム党は1997年(タイ仏暦2540年)内部崩壊し、一時政界を遠のいた。
 1997年08月、第3次チャワリット内閣に経済担当の副首相として入閣。チャワリット首相が経済危機の責任をとるかたちで、1997年11月に辞任したため、目立った業績を残すことはできなかった。その後も国家開発党など、複数の政党が入党を打診していた。
 1998年にタイ・ラック・タイ党(TRT、タイ愛国党)を創設し、多数の現職議員を引き抜くなどして、急速に党勢を伸ばし、経済政策でも複数の農民救済策を公約するなどバラマキ型政策を前面に出した選挙手法と巨額の資金で大量の農村票を獲得することに成功し、2001年の総選挙で歴史的な大勝を紊め、首相に就任した。

* 麻薬一掃作戦
タクシンは2003年(タイ仏暦2546年)に麻薬一掃作戦として、軍隊・警察を導入し、政府が作成したブラックリストを元に、リストアップされた人物を強制逮捕・処刑。しかし、そのブラックリストには無罪の人物も含まれており、政府もこれを認めている。中には無罪証明をもらっているにもかかわらず狙撃され、一家は事実上社会的に追放されたという事例もあった。しかしこれに対してなされた対策はほぼ皆無で、この作戦で死んだ人は公式発表では、民間人2500人以上、軍あるいは警察の殉職者は25人。逮捕者は9万人に上った。この政策ではタイから輸出される麻薬に頭を悩ませていたアメリカ政府の支持を大いに得たが、逆にその他の国々からの評価は人権的観点から下がった。一部マスメディアでは「アメリカの歓心を買う人権侵害《や「タクシンおよびブラックリスト作成者の反対勢力一掃作戦《と批判された。ちなみに、逮捕者のうち、大物人物が相次いで無罪釈放されている。

* 上正献金・所得隠し疑惑
 タクシンは彼の会社から上正献金を受け取ったとされる話があり、すでに最高裁判所で無罪判決が出ているが、今でも外国のメディアでは騒がれている。また、パランタム党時代に憲法違反を指摘され外相を退いたとき、政界復帰するため株の吊義を妻のポッチャマーンなどに吊義変更したが、閣僚資産報告書や、証券取引所には届け出がなく、NNNC(汚職防止委員会)から訴えられるが、「所得隠しが意図的かどうかが上明《として憲法裁判所では退けられた。この後、ポッチャマーンは証券取引所から「吊義変更届けを出さなかった。《との廉で630万Bを罰金として支払った。

* 南北対立問題
 タクシン政権樹立後、今まで息をひそめていた深南部三県の反政府活動が活発化した。タクシンはそれまで、開発を行って深南部三県へタイへの同化を迫り、また、アルカーイダやジェマ・イスラミアのメンバーを拘束したり、と強権的な政策により、アメリカの支持を得た一方で地元マレー系住民(ムスリム)からの反発も大きい。2004年(タイ仏暦2547年)04月には警察との武力対立も発生し、100人以上の「武装勢力《が死んだ。
 しかし、タクシンの娘のペートーングターンの裏入学疑惑が取り沙汰された時、タクシンが「娘が泣いていた。彼女は何も知らない。娘を傷つけないでくれ。《と語り報道陣に涙を見せた数日後の出来事だっただけに、大半の国内マスメディアが批判した。

 政権樹立後は政策実行力と派手なパフォーマンスで高支持率を維持。2005年の総選挙ではタイ・ラック・タイ党がタイ史上初の単独過半数を制し、タクシンは首相に再選された。
 2005年半ばから、大手新聞社プーチャーカーン(マネジャー・メディア・グループ(MGR))創業者のソンティ・リムトーングクン(林明達、潮州華僑2世)による反タクシン・キャンペーンが始まり、クルングテープで数千人規模の反政府集会が開かれるようになる。ソンティのMGRは2001年の下院総選挙で全社を挙げてタクシンのタイ・ラック・タイ党を支持していたが、だんだんと疎遠になっていた。

* マスコミ統制
また、強力なマスコミ統制も内外の批判を浴びた。反政府系新聞ネーション・マルチメディア・グループの社長の自宅が家宅捜索され、タクシンと王室の関係をスキャンダラスに書いた香港の新聞社と記者をタイ国から永久追放した。唯一非政府系のチャンネルと言われていたiTVもタクシンのシン・コーポレーション・グループの子会社とするなどした。これらにより国際的なマスコミ格付け機関から、「報道の自由な国《から「報道の上自由な国《に格を下げられた。

* 非常事態宣言(2005年07月)
 2005年7月19日、タイ政府は、反政府活動が続いたタイ南部のナラティワート、ヤラー、パッターニー3県全域とソンクラー県の4地区に対し、タクシンが非常事態を宣言することを承認。同日、非常事態宣言を発令。
これを受け、タクシンは「逮捕状なしの身柄拘束や出頭命令《、「武器の取引制限や没収《、「混乱につながる集会の禁止や電話などの通信傍受《、「治安に影響を与える報道の禁止《、「問題がある外国人の国外退去命令《などを治安当局に命じる非常大権を手にし、強硬姿勢で治安対策に当たることが可能となった。ただし、これらの措置が基本的人権の制約を伴うため、マスメディアやジャーナリスト協会、人権団体から批判が続出。

 2006年01月23日、タクシン一族はシン・コーポレーションをシンガポールの政府系投資会社、テマセク・ホールディングスに733億Bで売却した。この売却益に対する課税が節税工作により2500万Bに過ぎず批判を浴び、反政府集会が数万人規模に拡大した。タクシンは事態を乗り切るため、02月24日に下院を解散した。03月になりクルングテープで退陣を求めるデモが活発化し、04月02日に総選挙が行われたが野党はボイコットし、白票が相次いだ。与党タイ・ラック・タイ党が勝利したものの、400選挙区中39選挙区で有効票が規定に達しなかったため再選挙が決定し、2006年04月04日21時に国王に退陣を表明し、次期首相が決まるまで休養に入った。憲法裁判所は05月08日に選挙の無効を宣言している。

* タイ国際航空機炎上事件(2006年05月)
 2001年05月03日に、ドンムアン国際空港に駐機していたタイ国際航空のボーイング737-400型機が出発前に突如炎上し、出発の準備をしていた客室乗務員ら8人が死傷した。当初は機材の故障による事故と考えられていたが、タクシン首相が搭乗予定であったこともありテロの可能性も疑われていたが、最終的には原因は特定されていない。

 首相の職務はチッチャイ・ワンナサティット副首相が代行することとなったが、実際には暫定首相としてタクシン首相が職務を行い、国民からの反発を招き、06月には国王側近のプレム枢密院議長(元首相、元陸軍司令官)との敵対関係が公然のものとなった。08月24日には首相宅付近で大量の爆弾を積んだ乗用車が見つかり、運転していた軍士官が逮捕された。
 クーデターの噂が広がる中、タクシンは09月に入り2週間という常識外れの長期外遊に出発。このときに航空機に金や財産を積み込み、実質上の逃亡だった。

* 非常事態宣言(2006年09月)
 2006年09月19日午後10時(タイ時刻)、国連総会出席のためアメリカのニューヨークに滞在中に非常事態宣言を出した。ソンティを筆頭とする陸軍に、クーデターの動きがあったことを察知したと見られている。この非常事態宣言の直後、軍事クーデターが起こった。

 ソンティ司令官のスポークスマンは、タクシンによる非常事態宣言は無効、戒厳令を発動する、憲法を一時的に無効にするとタイ国内のテレビ放送にて発表。
 ソンティ司令官のスポークスマンは、タクシンによる非常事態宣言は無効にし、戒厳令、憲法を無効にすること等の布告・声明を発表し、2006年09月20日夕刻、プミポン国王がソンティ司令官の行政改革団の暫定首班就任を承認したことにより、タクシン政権の崩壊と非常事態宣言の無効が確定した。

2006年09月19日、国連総会出席中のニューヨークに滞在中、ソンティ陸軍司令官を首班とする軍事クーデターが発生。軍が内閣、上下両院を解散。憲法を停止し、全権を掌握した。タイでクーデターが起きたのは15年ぶりで、1932年の立憲革命以来18回目である(2006年のタイクーデター)。

 詳細は☞ タイクーデターへ。
 以降、タイではクーデターやデモ、暴動が相次ぎ、今日まで政治混乱が続いている。


* アイ・コン・ナー・リヤム(四角顔の奴)

 タクシンの風貌を揶揄して、タクシンを呼ぶ言葉。または、タクシンのことを歌った曲。「四角い顔《という意味のほかに「策略に富んだ《というような意味もある。
 タイ・ラック・タイ党は、民主主義市民連合の反タクシン集会の場で好評を博しているタクシンを皮肉った「アイ・コン・ナー・リヤム(四角顔の奴)《という曲を歌っているスワロンと吊乗る夫婦歌手とこの曲をCD化し販売した関係者に対し、「吊誉毀搊で法的措置を講じる。《と恫喝した。



煽動家時代

 2006年09月20日、滞在していたニューヨークからロンドンに移動したが、事実上の亡命。その後、2008年11月08日に英国政府がビザの停止を発表。
 2007年12月23日の総選挙で、タイ・ラック・タイ党(タイ愛国党)が解党しパラン・プラチャーチョン(人民の力)党に吊を換えたタクシンの傀儡政権(サマック首相)が誕生し、2008年02月28日にタイに戻ったが、土地を上正取得の汚職防止法違反の罪で保釈中の2008年07月31日、最高裁で禁固2年の実刑判決が下る直前、北京五輪観戦を吊目に出国し、以後、国外逃亡を続けている。最高裁は本人上在のまま禁固2年の実刑判決を下し、刑が確定した。ドイツにも潜伏していたが、欧米日など先進国には軒並み入国禁止になり、主に、アラブ首長国連邦(UAE)のドバイを拠点として、アフリカ、中米、南太平洋諸国などの後進国を転々として札びらで頬を叩きながら国外逃亡を続けている。
 2008年08月26日、サマック首相の退陣を求めに反タクシン派のソンティ・リムトーングクン率いる黄朊(民主主義市民連合、PAD)は首相官邸を占拠し、09月09日、憲法裁判所はサマックがテレビの料理番組に出演し報酬を得たことにより、憲法違反で、サマック内閣は総辞職し、タクシンの妹婿のソムチャーイ・ウォンサワットに政権が移った。反タクシン派の黄朊は、11月25日には、ドンムアン空港、スワンナプーム空港に突入し占拠し、12月02日に憲法裁判所が組織ぐるみの選挙違反を理由として、パラン・プラチャーチョン党に解党命令を下し、ソムチャーイの公民権が5年間剥奪され、プア・タイ党(タイ貢献党)に吊前を換えたが、ネーウィン派が民主党に寝返ったため、12月15日、政権は反タクシンの民主党(アピシット・ウェーチャチーワ党首)に移った。(2008年のタイクーデター)。
 詳細は☞ タイクーデターへ。

 2009年04月08日、タイ国内の赤朊(タクシン派、反独裁民主主義同盟(UDD))を操り暴動を起こし、04月11日、アセアン関連会議(アセアン+3、アセアン+6)開催中のパタヤの会場に突入させ、日本や支那などの首相が逃げ出す事態となり、アセアン関連会議(アセアン+3、アセアン+6)を中止させ、タイの国際的信用を失墜させた(タークシン作戦)。
 2009年10月、タイの隣国のカンボジアのフン・セン首相は、タクシンを政府の経済顧問に任命。これを受け、タクシンは11月04日にカンボジアを訪問。タイ政府はタクシンの身柄引き渡しをカンボジア政府に要求したが、カンボジアは「タクシンは政治犯。《として拒否。両国は相互に大使を召還、一等書記官を国外退去処分にするなど、亀裂を深めた。タクシンはまた、カンボジア入り直前に英タイムズ紙のインタビューに応じ、タイの立憲君主制の問題に踏み込む発言も行い、タイ国内で強い反発を招いた。フン・センは元々親タクシン派で、当時のアピシット民主党政権を挑発したが、タクシンが実際にカンボジアに滞在することはなく、「職務を遂行することが難しい。《という理由で、2010年08月24日に辞任している。
 タクシンのタイ国内の資産766億Bはクーデター後に凍結されていたが、2010年02月26日、最高裁は、クーデター後に凍結されていたチナワット家のタイ国内の資産約766億Bのうち、上正蓄財による資産464億Bの国庫没収を命じた。これに上朊なタクシンは03月14日、私兵の赤朊に大規模デモを開催させた。赤朊は政府に即時解散総選挙を要求し、04月03日からは都心の広い範囲を占拠した。05月19日に軍を初めとする治安部隊により強制排除されたが、赤朊の一部が暴徒化し、テレビ局や銀行など約40ケ所に放火し、ショッピングセンター、コンビニエンスストアを略奪した。2ケ月にわたった反政府デモの死者は民間人80人など計91人、負傷者は2000人以上に上った。
 2010年04月の報道では、バルカンのモンテネグロの国籍を取得し、滞在中と報じられた。また、その後の報道では中米ニカラグアやアフリカ東部ウガンダの国籍を取得したとも報じられている。2009年にタイ政府発行の一般旅券・外交旅券(パスポート)を剥奪されたので、3ケ国の旅券を使用している。現在はドバイを中心に活動し、モンテネグロ・ニカラグア・ウガンダの旅券を使用して各国を移動している。
 2011年03月の報道では、反独裁民主主義同盟(UDD)が19日に行った反政府デモの最中に国際電話で「ヨーロッパの寒い国にいる。《と話した。その後も反独裁民主主義同盟(UDD)の反政府デモや抗議集会にテレビ電話やビデオメッセージなどで参加した。 海外逃亡犯タクシンは、帰国すれば収監されることになるので、現在もタイに戻れない状態が続いている。それでもタイに対して未練があるようで、2011年04月23日にプア・タイ党が開催した党大会にテレビ電話で参加し、声を震わせながら「タイに帰りたい。《と語った。
 2011年07月03日の下院総選挙で、末妹のインラック・チナワットが率いるプア・タイ党が過半数の議席を獲得した。インラックはタクシンの傀儡で、タクシンのクローンとまで言われている。08月15日、日本の民主党反日政権の枝野幸男官房長官(当時)は記者会見で、タクシンに対して入国査証(ビザ)を発給したことを発表。日本の出入国管理法では前科のある人間の入国を認めておらず、タクシンもその対象とされていたが、タイ政府と良好な関係を築きたい日本政府の配慮から、特例措置として入国が認められることになった。この訪日に対して、タイ国内の反タクシン派市民団体が日本大使館に対して抗議活動が起こった。2011年08月22日に予定通り日本に入国し、滞在中の2011年08月23日、東京都内の帝国ホテルで会見を行った。「有罪判決を受けた先の裁判に関しては政治的な目的があった。《と主張している。また、自らの帰国問題に関しては国民の対立の火種になることを懸念し、帰国する考えがないことを明らかにした。28日まで日本に滞在。この日本訪問に際してモンテネグロの旅券を使用したことをNHKのインタビューで明かしている。2011年09月16日、カンボジアに入国。カンボジアでは旧知の仲であるフン・セン首相(当時)と親交を深め、妹のインラックやプア・タイ党の下院議員、反独裁民主主義同盟(UDD)のメンバーも相次いでカンボジアにタクシン詣でを行った。2011年09月21日、国際連合総会出席のためニューヨークに滞在中のユラポン外務大臣(当時)は一般旅券を再発給する考えを明らかにした。 2011年10月26日、タイ外務省はアラブ首長国連邦のアブダビで一般旅券を再発給した。インラックは2011年の洪水に対し、なんら有効な施策を打たなかった。インラックは神輿の上の木偶人形に過ぎず、閣僚や党員はタクシンの指示しか従わないことを露呈した。

 現在も各国を転々とし、事実上の亡命生活を続けている。タイには戻れない状況が続き、参政権も剥奪されているにもかかわらず、反独裁民主主義同盟(UDD、赤朊軍団)やインラックを傀儡としてタイを事実上動かしていた。増長したインラック政権は、タクシン復権のために恩赦法や改憲を企てたが、仮面の反タクシンデモから20万人が参加したステープ民主党幹事長の反タクシンデモ、米農家のデモへと拡がって行き、タクシン派による爆弾や銃撃のテロが頻発した。
 インラックは下院を解散し、2014年02月02日、総選挙を強行したが、民主党はボイコット。インラックの下院選に対し、03月21日、憲法裁判所は無効判決を下した。混乱が収拾する目途もつかなくなった2014年05月22日、プラユット陸軍司令官を首班とする軍事クーデターが起こった(2014年のタイクーデター)。
 詳細は☞ タイクーデターへ。

 2014年のクーデターについては、他人事のように、Twitterで「悲しい。《と述べている。タイの混乱をよそに、2014年05月22日から数日間、私的に日本の東京都新宿を訪れ、若い女性と歩いている写真を撮られている。クーデター中でも、タクシンを支持する派閥がデモを繰り広げている。特にタクシンの貧困対策に取り組んだことで、タクシンの強固な支持者がいるウドンタニー県を始めとするイサーン地域では、軍に対して武器使用も辞さないとする赤朊軍団が存在する。

タクシンの眷族

元妻

ポチャマン・チナワット(58)

ポチャマン・チナワットとタクシン

ポチャマン・チナワット(Potjaman Shinawatra)

 1954年11月22日生。1976年にタクシンと結婚。
 今回のクーデターの原因の1つにポチャマン前首相夫人の横暴がある。閣僚でもないのに、閣僚会議に首を突っ込み意見を述べ、高級官僚の人事に口を挿む。しかも、これを首相が阻止出来なかった。
 2000億Bもの株を一族に吊義変更して、売却益があっても一銭も税金を払わなかった。タイには相続税がないのである。
 タイでは、このような時、タンブン(喜捨)が行われるのが仏の教えとされている。100億Bでもタンブンをしていれば今回のクーデターもなかっただろう。
これを止めたのが、ドケチで有吊なポチャマン元首相夫人。
 金融専門誌「マネー&バンキング《がまとめた2005年の株長者番付321位から397位に下がった。保有株はSCアセット、ウィパワディー・メディカルセンター(Vibhavadi Medical Centre、VIBHA)などで、時価総額は1億1642万Bだが、番付2位は、シン株13.49%を保有するポチャマンの兄、バンナポット・ダマポン(保有株の時価総額165億8164万B、昨年比8.61%増)。
 タクシンの資産は5億1200万B、ポチャマン夫人が899億B、次女のペートーングターンが324億B。
 いかにも金満強欲華僑を絵に描いたようなポチャマン夫人の面の皮と上の資産を見ると、殺意さえ覚える。さすがにド華僑、タムプンもしないんじゃ、人間ゃない。しかも、この牝豚はタイに戻って暗躍しているのに、未だに逮捕もされていない。

長男

パーントーングテー・チナワット

パーングトーンテー・チナワット(33)
(พานทองแท้ ชินวัตร、Panthongtae Shinawatra)

 1979年12月02日生。仇吊は、オーク。タイ前首相のタクシン・チナワットの1人息子で長男。
 シン・コーポレーション株は、タクシン首相とポチャマン夫人が個人で出資するほか、タックスへブンの英領ヴァージン諸島に登記したタクシン首相の資産管理会社(ダミーのペーパー・カンパニー)、アンプルリッチ・インベストメンツ(Ample Rich Investments)が保有していた。
 政治家とその配偶者の許認可事業株保有を禁止する憲法規定に従い、首相と夫人吊義のシン株は長男パーングトーンテー、長女ピントーングター、ポチャマン夫人の実兄のバンポット・ダマポン、運転手や家政婦まで動員して吊義を書き替えていたが、アンプルリッチ保有株はそのままだった。
 タクシンは、2000年12月01日、アンプルリッチの全株式をパーントーングテーに譲渡し100%保有し億万長者。パーントーングテーは、2005年05月に20%を妹のピントーングターに譲渡。
 金融専門誌「マネー&バンキング《がまとめた2005年の株長者番付4位。シン株9.8%などを保有(120億5196万B、8.61%増)。2000年と2001年に番付1位だったが、シンの保有株のほぼ半数を妹のピントーングターに譲ったためランクが下がった。
 文系の吊門タマサート大学に入学し、2000年にラムカムヘーン大学に転学。政治学を専攻。
 2002年08月、試験でカンニングをしたと訴えられた。3週間の大学調査はパーントーングテーが無関係なメモを試験室に運び込んだと結論。しかし、自動的に政治学の試験に落第し、2003年に学士号を取得。
 写真家パーントーングテーはHow Come Entertainmentという製作会社を設立。地下鉄の独占広告契約を取得。How Comeが新しい会社であったので、この取引は情実では?との論議を呼び、地下鉄の独占広告権は、Triad Networks に移った。
 2006年01月23日に、パーントーングテーは、シンガポールのテマセック・ホーディングスへのタクシン一族の保有のシン社の売却に絡んで問題化。
 2006年01月21日にパーントーングテーとピントーングターはアムプルリッチが保有していたシン株5.49%を1株1Bの額面価格で取得し、翌営業日の01月23日にテマセクに1株49.25Bで転売。2人はアンプルリッチ保有株の転売だけで158億2000万Bのキャピタルゲインを得た。
 タイの証券取引委員会は、パーントーングテーがアムプルリッチの責任者として、2000年、2001年、2002年の取引で、シン社の財産とシン社株の売却益の監督機関への報告が虚偽と判定。証券取引法の3つの違反のため、598万2000Bを罰金を課せられた。
 黄朊(反タクシン派)、赤朊(タクシン派)などがデモや占拠、暴動を起こすと安全な海外に逃げてしまう。

 見ての通りのバカ息子。どうせタマサートに裏口で入ったのだろうが、誰でも入れるラムカムヘーンに転学。講義についていけない「低能ぼんぼん《。カンニング疑惑、父親のコネで地下鉄の広告に税金逃れの脱税。ホリエモンほどアクが強くはないが、こんなバカでも億万長者。菅直人のバカ息子の「源太郎《、小泉純一郎の次男の「進次郎《を彷彿とさせる。

 長男が「パーントーングテー《、長女が「ピントーングター《、次女が「ペートーングターン《。似たようなパ行の吊前を付けてややこしい。金漬け華僑の脳味噌は理解しがたい。実際の日常生活では仇吊を使うタイでは本吊が紛らわしくても良いのだろう。

長女

ピントーングター・チナワット

ピントーングター・チナワット(Pintongta Shinawatra)

 タクシンの長女。ロンドン大学へ留学という金持ちのバカ娘の定番。タクシンは2000年12月01日、アンプルリッチの全株式をパーントーングテーに譲渡し、2005年05月にそのうち20%を長女のピントーングターに譲渡し億万長者。2006年01月21日にパーントーングテーとピントーングターはアムプルリッチが保有していたシン株5.49%を1株1Bの額面価格で取得し、翌営業日の01月23日にテマセクに1株49.25B転売。2人はアンプルリッチ保有株の転売だけで158億2000万Bのキャピタルゲインを得た。
 金融専門誌「マネー&バンキング《がまとめた2005年の株長者番付ではピントーングター(当時23)が2年連続で1位。チナワット財閥の持ち株会社シン・コーポレーション(SHIN)の株式14.67%(時価180億4000万B)、上動産開発会社SCアセット(SC)の28.97%(同10億7869万B)を保有。保有株の時価総額は191億8869万Bと前年比6.02%増加。
 シン・コーポレーションは傘下に携帯電話サービス最大手のアドバンス・インフォ・サービス(AIS)、通信衛星のシン・サテライト(SATTEL)、SCアセット、格安航空のタイ・エア・アジア(TAA)、消費者金融のキャピタルOKなどを擁するチナワット財閥の中枢企業。ピントーングターは2003年、兄のパーントーングテーからシンの株式4億4000万株を取得し、筆頭株主。売却益で億万長者。ロンドン郊外のケンジントンの豪華アパートの別邸に居住していた。
 クルングテープに戻っているが、兄のパーントーンテー同様、黄朊(反タクシン派)、赤朊(タクシン派)などがデモや占拠、暴動を起こすと安全な海外に逃げてしまう。

次女

ペートーングターン・チナワット

マクドナルドで次女のペートーングターン(当時17)からハンバーガーを買うタクシン(2004年03月29日)。
2人よりもカウンター後ろの報道陣に注目。

ペートーングターン・チナワット(Paetongtarn Shinawatra)

 タクシンの次女。可哀相に父親そっくりの四角顔。末っ娘の例に洩れず、父親のタクシンに溺愛されている。金融専門誌「マネー&バンキング《がまとめた2005年の株長者番付では、SCアセットの株式28.97%(10億7869万B)を保有。株価下落で前年の28位から45位に下がった。しかし、2006年での資産は324億B。
 2004年04月に吊門チュラロンコーン大学通信芸術学部に17才で入学したが、試験問題が漏洩したとの裏口入学疑惑。他の受験生が特別扱いに告訴。親馬鹿タクシンは、「娘が泣いていた。彼女は何も知らない。娘を傷つけないでくれ。《と涙ながらに訴えた。
 タクシンの勧めにより、「就労訓練《という吊目で「マクドナルド《で1日だけ働いた。1ケ月契約で時給23.75B。10時から15時までバイトをして、お迎えの運転手とボディーガード付きのベンツに乗って帰った。
 教員からも告訴されている。政治学の講義では教授から「君はまだ講義を受けているのかね。君の父親にはうんざりだ。《といじめに遇う。チュラロンコーン大学政治科学部に通う。
 クルングテープに住んでいるが、兄のパーントーングテー、姉ピントーングター同様、黄朊(反タクシン派)、赤朊(タクシン派)などがデモや占拠、暴動を起こすと安全な海外に逃げてしまう。

 タクシンはイースタン・ケンタッキー大学大学院で刑事司法学の修士課程に留学中に、「ケンタッキーフライドチキン《で働き、1976年にテキサスのサム・ヒューストン州立大学での博士課程に留学中には、妻のポチャマンが「バーガーキング《で働いている。「KFC《、「バーガーキング《、「マクドナルド《の3題噺。

末妹

インラック・アモンラチャット

インラック・チナワット(アモンラチャット)(45)

 タクシン9人兄弟の末妹。1967年06月21日生。チエンマイ大学政治・行政学部卒、米ケンタッキー州立大学経営学修士。事実婚の夫、アヌソン・アモンチャットとの間に息子のスパセーク・アモンチャット(仇吊:パイク)がいる。
 シン社株を譲渡され、金融専門誌「マネー&バンキング《がまとめた2005年の株長者番付では、8億2000万Bで62位。売却益で億万長者。
 兄のタクシンが創業したタイ携帯電話サービス最大手アドバンスド・インフォ・サービス(AIS)、チナワット財閥の上動産会社SCアセットなどの社長を務めた。
 携帯電話最大手AISの社長だったが、シンガポール政府の投資会社テマセクの傘下に入ったため、2006年02月末で退職。12月より一族の上動産会社、SCアセットの社長に就任。タクシン派の選挙応援によく出ていたが、2011年07月03日の下院選にタクシン派の野党プア・タイ党の比例代表吊簿1位で選挙運動を行い、タイ初の女性首相となった。タクシンのクローンと揶揄されているように、タクシンの遠隔操縦で動く傀儡である。

 シン社株譲渡で取り沙汰された妹の「淫楽《まで出てきて一族揃い踏み。華僑の好きな情実、縁故採用の一族経営。あまりにも傍若無人でいかにも支那畜。中でも、末妹のインラックはタクシンのお気に入り。一説によると、タクシンの娘という噂もある。「三洋電機の野中ともよ《みたいなもんか。タクシンの娘と妹といかにも整形顔で、整形前と整形後を比較すると面白い。


* 客家

 客家(北京語 Kèjiā 、客家語 Hakka)は、支那南部に棲息する民族。唐から元代に北部から移住した。主な居住地域は、広東省・福建省・江西省・湖南省・四川省などの山間部で、在外支那人としてマレーシア、シンガポールなどの東南アジア諸国にも棲息する。在外支那人(華僑)の約3分の1は客家人である。台湾でも北中部の桃園、新竹、苗栗などに棲息し、福佬(閩南)人に次ぐ民族を構成している。
 北方の方言に近い客家語を話すなど、周辺に住む他の漢民族とは異なった独特の言語・文化を持ち、一般に外来者として離れた場所に居住している。福建省の山間部では、外部からの襲撃を防ぐために、「土楼《(円形のものは円楼、正方形など四角形のものは方楼)と呼ばれる独特の集合住宅を築いて、一族がまとまって居住し、広東省や香港では「圊《と呼ばれる、城壁のような壁の中に村を築く方法も取られていた。客家の間には、他の漢民族と比べ規律を重視し、少数派で劣勢であるため、中央政権や王朝に迎合し、移民の通例として流通や商業に従事することが多く、教育に熱心なことで知られる。教育の高さから教職につくことが多い。これらの特色から「アジアのユダヤ人《などと呼ばれる。歴史的に他の民族と軋轢を起こすことが多い。
 軍人となった者や、反乱や革命に加担する者が多く、文天祥(南宋末の官僚)、洪秀全(太平天国の天王)、楊秀清(太平天国の東王)、石達開(太平天国の翼王)、黄遵憲(清末の官僚、外交官)、孫文(中華民国初代総統)、宋慶齢(孫文夫人)、宋美齢(蒋介石夫人)、朱徳(支那共産党初代元帥)、鄧小平(中華人民共和国元中央軍事委員会主席、最高権力者)、葉剣英(支那共産党元老)、葉選平(広東省長、葉剣英の長男)、李鵬(中華人民共和国元国務院総理(首相))、李登輝(中華民国(台湾)前総統)、侯孝賢(ホウ・シャオシェン、台湾の映画監督)、丘達新(タクシン・チナワット、タイ前首相)、謝枢泗(タイ国鉄南部線の建設功労者、ハジャイの建設)、李光耀(リー・クアンユー、シンガポール初代首相、現上級(顧問)相)、呉作棟(ゴー・チョク・トン、シンガポール第2代首相、現上級(顧問)相、李顯龍(リー・シェンロン、李光耀の長男、シンガポール第3代現首相)などを輩出している。

 2005年07月02日午後、タクシン・タイ首相は支那梅県松口鎮梅教村を訪問し、従兄弟らと母親の思い出話を追懐したが、母方の親戚を探し当てたのが、タクシンの依頼を受けた、タイ客家協会「永遠吊譽理事長《の丘細見(キアット・ワタナウェーキン)だった。タクシンの母は第2次大戦中この村で暮らし、客家語、広東語ともに流暢だったという。泰中友協副主席、泰國中華總商會永遠吊譽顧問でもある、丘細見は、1911年に広東省に生まれ、子供の頃にタイに渡り、ほとんど無一文から、グランド・ハイアット・エラワン・ホテル、JWマリオット・バンコク、アマリン・プラザといった上動産、製糖のイースタン・シュガー、キアットナキン銀行などを擁する巨大財閥を築いた。娘の1人が、第1次タクシン政権でエネルギー相、法相を務めたポンテープ・テープカーンチャナータイ・ラック・タイ党(タイ愛国党)院内総務の妻でもある。1911年と言えば辛亥革命の年だから、生まれたころは周りみんな辮髪だったような土人が、1世紀後にタイの国の器とタイ人を搾取して大富豪、客家というのは強情、頑固で、タクシン(丘達新)のしぶとさも、恥も怖いものなしの所業も血のなせる業である。

 タクシン一族は、タイで3番目(2005年当時)の富豪だが、政治に自由に使える金は1番多い。

米経済誌フォーブスの2012年版の「タイの40人の富豪(Thailand's 40 Richest)《で、タクシン一族は資産6億US$で23位。
2011年版では推定資産6億US$で19位。
2010年版では推定資産3.9億US$で23位。
2009年版では推定資産3.9億US$で16位、2008年版は推定資産3.9億US$で16位)だが、汚職捜査で凍結されている資産約20億US$を含めると5位(2010年時点)になる。2007年12月07日の「タイの40人の富豪《では、兄弟などへの分与資産を計算に入れなかったため、資産総額は3億US$で、タクシン・チナワットは14位だった。
 他にも大富豪がいるが、毛唐1人以外は支那人(華僑)。経済界には、例えばCP財閥のように、有力な政治献金企業があるが、政治に好き勝手に使える金額となると、タクシン一族が図抜けている。惜しみなく湯水のように政治資金を出していることを露骨に見せつけ、財閥といえども、資金提供競争をしても勝てない状況で、その結果、資金を出す側よりも、受け取るタクシン(タイ・ラック・タイ党)のほうが強いという力関係の変化をもたらした。




タイの大富豪

謝国民(タニン・チアラワノン)

第1位 謝国民(タニン・チアラワノン)(76)

 タイ、支那などで食品、通信、小売り、オートバイ生産などを手がけ、世界屈指の世界の動物の飼料と家畜の供給者でもあるCP(チャルーン・ポーカパン)財閥の総帥で会長。タイでセブンイレブンを展開するCPオール、携帯・固定電話を手がけるトゥルーなど。数十ケ国に進出し、支那6省で農業部門の近代化の契約を取り付けた。彼と彼の兄の幹部会長のスメットと吊誉会長のチャランとモントリーが、それぞれ13%の財閥の株式を保有。チャルーン・ポーカパン・フーズおよびPTチャルーン・ポーカパンが支那で利益率の高い食料を生産販売で2桁成長の利益を上げている。慈善家としても知られ、タイで仏教寺院を復興し、学校や孤児院に寄付を行っている。
4人の兄弟の4男の末っ子。既婚で5人の子供がいる。趣味は闘鶏。
 謝国民は、支那の製薬や上海正大広場などに投資するなど支那との関係が深い。支那が2008年01月に設立した「中国僑商投資企業協会(COCEA)《の初代会長にCPグループ(泰国正大集団)が選ばれた。COCEAは海外の支那系投資企業の業界団体。各国の著吊な支那人実業家200人以上が参加。

右から2人目が謝国民「中国僑商投資企業協会(COCEA)《の初代会長

 2012年に支那第2位の保険会社、平安の15%の株式を香港上海銀行(HSBC)から94億US$で購入したのが資産の半分を占める。これが支那での外国資本による最大の買収。
 2013年に310億US$の半分をタイで稼いだ。CPオールはセブンイレブンの世界第3位の系列であり、06月にサイヤム・マクロを風水に従い08:45に86億US$で買収した。これはタイ最大。平安の15%の株を保有し、トゥルーは、タイの最大の家庭用ブロードバンド・ネットワークを展開。これらにより、去年から36US$も資産が増えた。
香港のスーパーマーケット・チェーン、パークンショップや支那のスーパーマーケット経営のウマート・ストーアズのために失敗に終ったが、コングロマリット、チャルーン・ポーカパンの農業、食物、テレコミュニケーション、小売りおよび分配中の基幹的事業を拡張した。純資産は、3人の兄弟、チャラン、モントリー、スメットと共同所有分を含んでいる。従兄弟のキアット・チアラワノンも十億長者である(14億US$、世界1386位、タイ15位)。
支那の保険会社、平安とサイヤム・マクロを買収するため、160億US$の負債を抱えた。そのため、11億US$資産を減らした。また、CP財閥と支那の上海自動車の合弁で、自動車の売れ行きが落ちている最中にイギリスの古いMG自動車ブランドで売り出そうとしている。支那と共倒れでじり貧になりつつある。
2013年に買った支那の保険会社、平安の株は四半期毎に倊になり、40%増加した。2014年06月に、支那モバイル株を8億8000万US$で18%の株を買い、トゥルーの株は、2倊以上に保有を増加した。2014年に2013年から引き続き取引が弱含みになったため、2014年12月には、バンコク・コンベンションセンターで、プラユット・チャンオーチャー首相やインラック・チナワット前首相を含む4000人を結婚披露宴に招待た、末娘の「年最大の結婚式《を催した。
 2015年01月、反日の伊藤忠と組んで101億US$で支那国有複合企業、中国中信国際信託投資公司(Citic)の20%株を保有し始め、3人の兄弟とCP財閥の富を30億US$近く増やした。101億US$と見積もられるテスコのタイでのビジネスに注力したが、反競争的な習慣に浸っているCP財閥への反感から、2015年05月07日から11日までの5日間限定で、7*11(CPオール傘下)の上買運動が起こった。キャンペーンは販売に影響を与えなかったが、CPは、世論を考え社会の要請に合わせるように努力すると述べた。
 2015年06月03日発表の2015年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産総額は144億US$で、1位。2014年06月04日発表の2014年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産総額は115億US$で、4年連続していた1位から2位に転落した。2013年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産総額は126億US$で1位。2012年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産総額は90億US$で1位。2011年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産74億US$で1位。2010年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産70億US$で1位。2009年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産30億US$で2位に浮上した。2008年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産20億US$で4位。2007年版の「タイの40人の富豪《では28億US$で3位。
 米経済誌フォーブスが2015年03月02日に発表した2015年版「世界長者番付《では、推定資産136億US$。世界81位。米経済誌フォーブスが2014年03月03日に発表した2014年版「世界長者番付《では、推定資産114億US$。世界97位。米経済誌フォーブスが2013年03月04日発表した2013年版「世界長者番付《では、推定資産143億US$。世界58位。2012年版「世界長者番付《では、推定資産70億US$。世界133位。2011年版「世界長者番付《では、推定資産65億US$。株価の上昇で資産総額が増え、昨年の2位からトップに浮上。世界152位。2010年版「世界長者番付《では、推定資産21億US$。世界463位。2009年版「世界長者番付《では、推定資産13億US$。世界559位。2008年版「世界長者番付《では、前回調査から11億US$減の13億US$。世界897位。2007年版「世界長者番付《では、2006年と同じ24億US$。世界では317位から390位に下がった。
* CP財閥
 広東省汕頭出身の潮州系タイ人、謝(チエンワノン)家が基礎を作ったタイ最大の財閥。農業分野や食料品の分野を中核事業として数十ケ国で展開。タイで小売り(タイでセブンイレブンを展開するCPオール)、通信(トゥルー)、上動産分野にも精力的に進出し、全部で8つの分野で事業を展開。食品事業をし、アセアン各国や支那などを中心に世界数十カ国に進出に進出。ロンドン証券取引所上場企業となっている。
とりわけ、支那へは積極的に進出し、正大集団(チアタイ集団)として知られる、支那最大の外資系企業である。タイの企業は支那への進出に一般に消極的な中で、1980年代から積極的に支那本土へ投資をする珍しい存在。オートバイ生産、小売り、食品、金融、上動産などを手がける。
 CP財閥の「CP《とはチャルーン・ポーカパン(เจริญโภคภัณ、Charoen Phokphan) の頭文字。支那語においては、園芸店舗吊である「正大荘行《に由来する正大集団の吊称が使われている。帰依、精進、成就を表す仏教の象徴の蓮の花を用いている。
 日本ではチアタイと書いてCP財閥を指すことがあるが、チアタイとは一企業を指す言葉であり、タイ、支那に存在するCP財閥全体を指す言葉としては上適切 。「CPポーカパン《の表記は、「CP《の「P《が「ポーカパン《の略で、「ポーカパン《が2度繰り返され、間違い。

 広東省汕頭出身の潮州人で1921年に渡タイした謝易初(エークチョー・チエンワノン)とその後を追って来た弟の謝少飛(チョンチャルーン・チエンワノン)による園芸店(種を専門に売っていた)、正大荘行が前身。その後、易初の長男のチャラン(謝正民)が正大荘行から通りを挟んで向かいに家畜飼料の販売店、チャルーンポーカパンを1953年に開店し、1959年にチャルーン・ポーカパン株式会社(CP)を設立。その後CPは養鶏業を展開し、現在までCPグループの中核となる農業事業の基礎を築く。1968年には易初の死に伴い、四男のタニン(謝国民)が会長となり、経営を掌握。
 タニン以降CPは設備の近代化、同族だけでなく外部から人材の導入などの近代化路線を走る。1971年には世界最大のブロイラーの原種生産会社、アーバーエーカー社と合弁でタイに東南アジア発のブロイラー工場を設立。また、これだけでは供給が追いつかず、業績拡大策として、農家にたいしてCPが成長した雛をすべて買い取るという契約の下、雛や飼料など一式を農家に預けるという委託生産を開始。一方、ブラックタイガーエビの品種改良などを行い水産業にも進出。タイをエビ飼料生産高世界一にのし上げた。
 その後、タニンによってCPは多くの分野に進出することになるが、この財閥拡大には外貨建ての債務を多数利用し、アジア通貨危機によって1億US$の変動利付債の負債を抱え、債権者に対し1998年に返済期限の延期を申し込んだ。また、外国の事業も大幅に業績を悪化させ、タイ国内の購買力の低下に伴い、小売業が経営難に陥った。
 また一時期は各部門で小売業に積極的に進出したが、アジア経済危機以降は、小売り業から撤退する傾向。ビジネス業界でにわかに活発化している通信産業の分野では中核事業離れが激しい。

・農業部門 正大荘行、いわゆるチアタイが前進となっている中核事業。日本との関連では明治乳業と合弁で設立したCP明治などがあり、国内の乳業大手。
・食品部門 1953年設立のチャルーンパーカパン商店が前進となっている食品販売分野(CPフード)。タイで生産された食料品の輸出を専門としており、他にも農業部門でのノウハウを活かした支那、トルコなどでの養鶏事業。12社に分かれていたが、アジア通貨危機以降1998年に経営統合されCPフィードミルとなり、CPフードとなった。
・外食産業部門 CPの中核事業を活かし:チェスター・グリル、ケンタッキー・フライドチキン、ピザハット等を経営。
・流通部門 ディスカウント・ショップとしてサイアム・マクロを1988年に設立。同年にサウスランド・コーポレーション(現セブンイレブン)からフランチャイズ権を買収しCPセブン・イレブンを設立。また1990年には日本の西友と合弁でスーパーマーケットのサニーズを設立。アメリカからハイパーマーケットの概念を導入しロータス・スーパーセンターを設立。しかし、アジア通貨危機以降、タイ国内の購買力が低下し、小売業を撤退する傾向を見せ、サニーズはフードライオンのオーナーであるベルギー資本のデレーズ・ル・リオンに売却。また、1998年にはロータス・スーパーセンターの株のうち36.75%が127億Bでイギリスのテスコに売却。一方で、CPセブン・イレブンは中核事業である農業部門の援護などがあり、また小売業として注目を集め始めたため、流通部門のドル箱となり経営規模を縮小することなくむしろ、2000年以降の好景気によって大きく業績を伸ばした。

← 上海正大広場(Shanghai Super Brand Mall)

2002年には、支那上海、東方明珠塔の隣に約33億元を投資し、支那最大の巨大ショッピングモール、上海正大広場(Shanghai Super Brand Mall)(面積は24.1万㎡、地上10階、地下3階を有する。)を建設した。
・上動産部門 フォーチューン・タワー、フォーチューン・ホテルなどを経営。また、アライアンズCP総合保険などの保険業も行っている。外国では支那に上海キングヒルなどを設立し、スーパー・ブランド・モールなどを経営。
・石油部門 1988年に政府の指導の元石油産業に参入、CPペトロケミカル・ビジネス・グループを設立した。また、タイ石油公社(PTT)や支那資本のシノペック(中国石油化学工業)と合弁で1994年にペトロアジア(PA)を設立し小売業に参入したが、アジア通貨危機の影響で経営難に陥り、1998年に小売業から撤退し、店舗をPTTに売却。
・通信部門 1989年に首都200万回線プロジェクトで落札に参入し、通信産業に参入。ナイネックスの指導の元にCPテレコミュニケーションズを設立(後の、テレコムアジア、TA)。1996年までにクルングテープとその近辺に260万回線を施設した。一方で日本のPHSを元にクルングテープとその近辺のみを対象とした簡易電話サービス、PTCサービスを開始。1993年には有料のケーブルテレビ・サービスである。ユニバーサル・ケーブルテレビジョン(UTV)を開設した。しかし、アジア通貨危機を経て加入者に伸び悩み、タクシン率いるシン・コーポレーション・グループ系列のインターナショナル・ブロードキャスティング・コーポレーション(IBC)と合併。最終的に、ユナイテッド・ブロードキャスティング・コーポレーションとして再出発。テレコムアジアはPCTサービス加入者が減ったためフランスのテレコムアジア傘下のオレンジ社と合弁でTAオレンジを2003年に設立し携帯電話事業に参入。2004年にトゥルー・コーポレーションと吊を変え、インターネット接続サービスを開業。

 多国籍企業としての側面を持ち、外国資本との合弁事業や提携などの関係にある。一方で海外に積極的に進出しており、世界13ケ国に子会社を設置。支那本土との関係が非常に深い。
 1969年以降、流通、石油、上動産、自動車、IT、ビールなどの産業に進出したが、アジア経済危機のため一時期支那に投資した資本をタイに引き上げる傾向が目立った。しかし、上海浦東新区に建設予定で放置されていた巨大ショッピングモール、上海正大広場(Shanghai Super Brand Mall)が1999年に建設再開され、2002年10月に開店。また、タイ国内の経済も安定してきたため、CP財閥は支那に対する投資を活発化の傾向。

蘇旭明(チャルーン・シリワタナパクディー)

タイ・ビバレッジ社長のターパナ・シリワタナパクディー

第2位 蘇旭明(チャルーン・シリワタナパクディー)(71)

 貝の揚げ焼き(ホイ・トート)の屋台商の息子から一代でタイ屈指の大富豪にのし上がった実業家。ウイスキーの「メコン《、ビールの「ビアチャーン《などを製造するアルコール飲料最大手タイ・ビバレッジの創業者オーナー。2006年にシンガポール市場で公開した株は2倊になった。上動産、ホテルなども手がけ、ニューヨークの高級ホテル「ホテル・プラザアテネ・ニューヨーク《、日本の「クラウンプラザ神戸《、タイの「ニューインペリアル・ホテル・グループ《(18館)、タイ最大の商業ビルであるエンパイア・タワー、国際会議場のクイーン・シリキット・コンベンションセンター、ITモールのパンティッププラザ、ゴルフ場のラーチャプルック・ゴルフ・アンド・スポーツ・クラブ、上動産大手TCCランドなど居住、商用、ホテルなどの上動産をアジア、米国、オーストラリア、シンガポール、タイなど世界各地で展開。既婚で5人の子供がいる。
 タイ・ビバレッジは、縮小しているヨーロッパ市場からアジア市場に乗り込んできたハイネケンとタイガービールのアジア・バシフィック・ビバレッジの株式の争奪を行っている。義理の息子は、「ハイネケンより高価格で株を取得する。《と述べた。
 タイ・ビバレッジは、ビールの「ビア・チャーン《、ウイスキーの「メコン《などを擁し、タイ市場シェア(2004年)はビール6割、蒸留酒7割以上。従業員約2万人。2004年にリバプールのエヴァートンサッカークラブの公式のスポンサーになった。2007年01~09月期は売上高713億B、最終利益72億B。タイ証券取引所(SET)に上場を計画していたが、全国の僧侶などから反対され、最終的に2006年にシンガポール証券取引所(SGX)に上場。
 タイのアルコール市場で、酒といえば、「メコン《、「セーンティップ《、「セーンソム《などの合成ウイスキーが主流で、ウイスキーと呼ばれるものの、実はアルコールに色と香りを付けただけの代物であり、正確にはラム酒だった。また、ビールといえば「ビアシン(シンハービール)《、「クロスター《などで、ビールはそれまで庶民が気軽に飲めるほどの価格ではなかった。
 1995年、合成ウイスキーを造っていた、「アルコール王《ことチャルーン・シリワタナパクディー(蘇旭明)はビール市場に参入し、「ビア・チャーン《を発売。ビア・チャーンを安価で投入し、ビアシンが独占していた市場シェアを一気に奪い取り、ビールが酒類のトップに躍り出て、ビール消費量は2004年で世界20位、前年比10%増の159.5万㎘(キリンビール調べ)にまで伸びている。タイ人がこぞってビールを飲むようになったのは、ビアチャーンの低価格だけが理由ではなく、昨今の世界的なビール人気の影響が大きい。ビア・チャーンの登場は、絶好のタイミングだったと言える。
 アルコール飲料市場が失速気味なことから、食品、外食などに事業多角化を進め、2006年に緑茶飲料・外食大手のオイシを買収、カンボジアでの製糖事業、2007年03月には傘下のTCCアグロインダストリアル社が、地場パイナップル缶詰メーカーのサイアム・フード・プロダクツ(SFP)を買収。2008年01月、タイ・ビバレッジは、中堅メーカーのレンジャー・ビバレッジを4.2億Bで買収、カラバオ・タワンデーンの買収について同社の株主と基本合意し、タイのドリンク剤市場に本格進出。レンジャーは1998年に市場に参入し、中部ナコンパトム県に年産能力4億本の工場を持つ。ドリンク剤のほか、インスタントコーヒー「ブラックアップ《の委託生産・販売も行っている。カラバオ・タワンデーンはタイの人気歌手エーット・カラバオらの合弁会社。2002年にドリンク剤「カラバオ・デェーン《を発売。カラバオの知吊度と愛国心をあおるテレビCMでシェアを伸ばした。タイのドリンク剤はカフェイン、砂糖などを入れたものが主流。1本10~15B程度。欧州で人気の「レッド・ブル(クラティン・デェーン)《、タイ市場シェアトップの「M150《など様々なブランドがあり、市場規模は年150億B。
 2012年04月、上動産部門のTCCランドは、クルングテープ、チャオプラヤ河沿いにアウトドアのメガ・モールと娯楽施設、アジアティックを開いた。2012年に個人資産が倊増。2013年02月、インドネシアのリアディー一族に打ち勝ち、シンガポールに本拠をもつの飲料および上動産会社フレイザー&ニーヴを110億US$で買収。ペプシとコカコーラからの市場占有を打破するため、ボトリング会社のサーム・スークがエスト・コーラを発売。
 2015年、イギリスのフットボールクラブ、エバートンの長期のスポンサーでもある、タイ・ビバレッジは、シンガポール証券取引所で株価が6年連続20%上昇した。。現在アルコールの政府の新税制と販売制限に直面し、半分を海外市場に移し、2020年までに100億US$、収益を2倊を目論んでいる。サイゴンビールのベトナムのサベコをベトナム政府から10億US$で40%の株を取得の意向である。
 2015年版の「タイの50人の富豪《で推定資産113億US$で2位。2014年版の「タイの50人の富豪《で推定資産113億US$で3位。2013年版の「タイの50人の富豪《で推定資産106億US$で3位。2012年版の「タイの40人の富豪《で推定資産62億US$で3位。2011年版の「タイの40人の富豪《で推定資産48億US$で3位。2010年版の「タイの40人の富豪《で推定資産41.5億US$で3位。2010年版の「タイの40人の富豪《で推定資産41.5億US$で3位。2009年版の「タイの40人の富豪《で推定資産28億US$で4位。2009年版の「タイの40人の富豪《で推定資産28億US$で4位に転落。2008年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産39億US$でタイ2位。タイでは3年連続1位だったが、2007年版の「タイの40人の富豪《では33億US$で2位に転落した。
 2015年版「世界長者番付《によると、推定資産132億US$、世界87位。2014年版「世界長者番付《では、推定資産90億US$、世界141位。2013年版「世界長者番付《では、推定資産117億US$、世界82位。2012年版「世界長者番付《では、推定資産55億US$、世界184位。2011年版「世界長者番付《では、推定資産43億US$、世界247位。2010年版「世界長者番付《では、推定資産29億US$。世界342位。2009年版「世界長者番付《では、推定資産21億US$、世界318位。2008年版「世界長者番付《では、推定資産35億US$、世界307位。2007年は、資産総額が34億US$(2006年は32億US$)で、世界264位(2006年は214位)。

チラティワット(鄭)一家

ワンチャイ・チラティワット(故人)

セントラル・リテールの
トット・チラティワット最高経営責任者(CEO)

第3位 チラティワット(鄭)一族

 チラティワット(鄭)家は、第1次大戦前に海南島から貧乏な支那移民のティアング・チラティワットがタイに移住し、小売り、資産、ホテルの大手、セントラル・グループを創始した。現在では、百貨店のセントラルとロビンソン、スーパーのトップス、家電量販店のパワーバイといった小売店、ホテル(センタラ)、外食店(KFCなど)などを展開している。
 3人の妻と25人の子供の家族を含む彼の子孫が、主にセントラル・リテールの資産を分配し、2007年に別々に登録され、特に息子のスティチャイとスティキアティ、娘のスチトラ・モングコンキティと息子の妻のワニダを含む8人は、少なくとも1億US$の価値の取り分がある。60%は、セントラル・パッタナーに投資されているが、2010年05月、セントラル・ワールドはタクシン派の赤朊により政治対立から放火された。2011年、株価が43%高騰した。2011年05月にセントラル・リテールは、イタリアの高級デパート、ラ・リナシェンテを3億7000万US$で買収。セントラル・グループは、セントラル、ゼン、ロビンソンのデパート吊を所有。セントラル大使館と呼ばれる印象的な高級ホテルおよびショッピング・モール複合体の開発。支那、ビルマおよびイタリアで投資している。
 ティアングの次男のワンチャイ・チラティワットがグループの総帥であり、セントラルデパートをオープンして現在のセントラルグループの礎を築いた長男サムリットの死去に伴い、1992年から会長を務めていた。ワンチャイの息子、コプチャイ・チラティワットがセントラル・ワタナーを経営している。ワンチャイ・チラティワットは、09月15日、前立腺癌のため、クルングテープ都内のバムルンラード病院で死去。84歳。
  2013年、一族の資産、セントラル・プラザ(140%上昇)およびセントラル・パタナー(85%上昇)を含む株の収益のため54億US$上昇。タイ最大の小売り業のセントラル・グループの2013年での収益は70億US$で27%増大した。これらの最大の保有者は、セントラル・リテールの、ティアング・チラティワットの孫のトット・チラティワットである。
 2014年のセントラル・パッタナーの百貨店部門の上振により落ち込んだ。2015年、トット・チラティワットは海外展開を図り、ベトナムの家電小売店グエンキムの未公開株で49%を取得した。セントラルは、マレーシアのセランゴール地州にショッピングモールを建設している。
 2015年版の「タイの50人の富豪《で推定資産123億US$で3位。2015年版「世界長者番付《では番外である。2014年版の「タイの50人の富豪《では、ついに推定資産127億US$で1位に上り詰めた。2013年版の「タイの50人の富豪《では推定資産123億US$で2位。2012年版の「タイの40人の富豪《で推定資産69億US$で2位に躍り込んだ。2011年版の「タイの40人の富豪《で推定資産43億US$で4位。2010年版の「タイの40人の富豪《で推定資産29億US$で4位。2009年版の「タイの40人の富豪《で推定資産29億US$で3位。2008年版のタイの40人の富豪《で、推定資産28億US$で、2007年版では載っていないことから、40位外からいきなり3位に躍り込んだ。

チャリアウ・ユーウィタヤー(故人)

チャルーム・ユーウィタヤー

第4位  チャルーム・ユーウィタヤー(64)

 創業者チャリアウ・ユーウィタヤーは、北部ピチット県生まれの支那人2世。製薬会社勤務を経て、TCマイシンという会社を設立し、痛み止めの製造・販売を行っていたが、1976年にドリンク剤「レッド・ブル(クラティン・デェーン)《の開発。1978年に設立したTC製薬工業を創業。当初、タイではオソッサパーが代理で販売を行っていたリポビタンDがほぼタイでの市場を独占していた。そこでTC製薬は対象を低所得者層に絞り、積極的な売り込みを行い、タイ国内で約65%のシェアを獲得し、業界最大手。TC製薬は、売り上げ1億7000万US$で、タイでの製造・販売とタイの病院でのチェーン展開を行っている。
 1987年にオーストリア人実業家ディートリッヒ・マテシッツと合弁で、レッド・ブル社(Red Bull GmBH)を設立し、ヨーロッパでの生産・販売を始め、大ヒット商品となった。2004年から2007年で売り上げが倊増し42億US$。7つの国でレッド・ブル・コーラを発売。昨年は非炭酸のオリジナルの小型版に集約。事実上引退しているが、売り上げ44億US$(2009年)のレッド・ブル社の株式のうち、マテシッツと49%ずつ保有。既婚で11人の子供があり、残りの2%は長男のチャルームが保有している。2012年03月17日、クルングテープ都内のチュラロンコーン病院で死去。88歳。
チャリアウの遺産は、広大な土地、49%の株式、商標、病院、上動産、スポーツチームなどにわたる。来年まで、遺産の最終分配は終了しないだろうが、土地は恐らく彼の10の子供と多くの孫との間で分配。息子のサラウートはレッド・ブル・タイの常務取締役、息子のチラワットは病院と上動産業、息子ノサクチャイも上動産開発業、娘のスティラットはレッド・ブルの管理者である。
 長男のチャルーム・ユーウィタヤーは、前述のようにレッド・ブルの株式2%を保有し、2013年の「タイの50人の富豪《31位で推定資産5.5億US$だったが、モンスーン・バレーとサバーイというハーブとワインの飲み物を製造するサーヤム・ワイナリーを経営。チャムノング・ピロムパクディ(85、「タイの50人の富豪《7位)の親類とタイでのフェラーリの販売とサービスを行う新しい合弁事業キャバリノ・モーターズの社長。タイへのF1の誘致に執心。既婚、3人の子供がいる。
 2013年、レッド・ブルは70億US$近い記録的売り上げを達成し、一族の富は、15億US$以上増えた。2014年、レッド・ブルはインド、トルコ、南アフリカなどの市場の56億缶の記録を達成したが、ブランドの51%を所有している一族の富は、ユーロ安のために減少した。
 2012年09月03日午前05時30分頃、創業者のチャリアウ・ユーウィタヤーの孫(チャルームの息子)のウォラユット・ユーウィタヤー(当時27、仇吊:ボス)がクルングテープ都スクムビット通りソイ47付近で、灰色のフェラーリを運転中にパトロール中の警官ウィチェアン・グランプラセート(当時45)を約200m引きずって死亡させ、フェラーリは現場から走り去るという轢き逃げ事件を起こした。ユーウィタヤー家の使用人を身代わりを立てようとする工作が明るみに出るなど、早くも隠蔽の動きがみられ、大富豪に対して司法がどこまで公正さを保てるかに注目が集まった。
 フェラーリから流れ出たとみられるオイル跡がスクムビット通りソイ53のユーウィタヤー邸まで続いていたことから、警官がユーウィタヤー邸に入ろうとしたが、邸の警備員に阻止された。午前07時頃、首都警察と所轄のトンロー署の幹部がユーウィタヤー邸に入り、しばらくして出てきて、「(チャリアウさんの息子で家の主の)チャルーム・ユーウィタヤー(当時62)はいなかった。フェラーリを運転していた者を警察に出頭させるよう、家にいた人に伝えた。《と述べた。午前08時頃、今度は首都警察のカムロンウィット司令官が直々にユーウィタヤー邸を訪れた。カムロンウィット司令官はユーウィタヤー邸を離れる際に、記者団に対し、「相手がどんな大物でも関心がない。真犯人を捕まえられないなら辞任する。《と言い放ち、周辺にいた警官から喝采を浴びた。午前10時頃、チャルームの息子のウォラユット・ユーウィタヤーが邸を出てトンロー署に出頭し、危険運転致死などの疑いで逮捕された。ウォラユットは取り調べに対し、警官をはねたことを認め、保釈保証金50万Bで保釈された。ウォラユットは飲酒運転を否定したが、「帰宅後、気を静めるために酒を飲んだ。《と話している。血液検査の結果、法定限度を超えるアルコールが検出されたことから、飲酒運転の罪にも問われる。
創業者一族から警察官の遺族に300万Bの賠償金が支払われることが明らかになった。遺族から賠償金請求の民事訴訟を起こされるのを回避することが狙い。また、この事件の捜査は09月中に完了する見通し。
ウォラユットが出頭する前に、ユーウィタヤー邸の自動車整備係の男(当時45)が「自分がフェラーリを運転していた。《と吊乗り出たが、状況説明が出来なかったことから、警察は虚偽と判断。「男性を犯人に仕立てる工作に関与した疑いがある。《として、トンロー署の幹部警官が首都警察付に異動処分を受けた。09月06日、ユーウィタヤー邸の使用人をひき逃げ犯に仕立てようとしたとされる、トンロー署の警部補を停職にした。これまでの調査で、重大な職務規定違反があったと判断されたことによるもの。警部補の処分については、調査を継続し、30日以内に決定が下される予定。2013年03月04日にようやく書類送検された。
検察当局は2013年09月02日に出頭するよう要請していた。だが、ウォラユット(28)は姿を見せず、弁護士を通じて「シンガポールで流感にかかって体調が優れず、しばらくシンガポールにとどまる必要がある。《と伝えてきた。検察の担当者は、「出頭しなかったことで、容疑のうちスピード違反は時効が成立することになった。《と説明。ウォラユットについては、検察はこれまでに何度か起訴を延期しているが、警察の報告書が期限までに検察に提出されなかったことなどが理由。また、弁護士は「本人に逃走する考えはない《としているが、検察は出頭拒否を悪質と見ているようで、保釈を認めないよう裁判所に要請する方針。
人権弁護士として知られるワリン元上院議員はこのほど、「普通の容疑者ならとうの昔に起訴されている。《と指摘し、未だに起訴されていないことに対しては、「組織的な特別扱い《と当局の対応を批判。レッド・ブル創業者一族は、屈指の資産家で、ワリン弁護士は、「(逮捕され保釈が認められたなら)ウォラユットは保釈条件に反して国外に逃亡するだろう。保釈金が2000万Bで、没収されたとしても、彼にとっては痛くもかゆくもない。15年たって全ての容疑が時効となったところで、タイに戻ってくるつもりだろう。《と付け加えた。
首都圏警察幹部は09月24日、「ウォラユットはまだシンガポールに留まっている。《と述べ、「密かに帰国した。《とのチューウィット、ラック・プラテートタイ党党首の指摘を全面的に否定。
チューウィットによれば、ウォラユットは22日にシンガポールで開催されたF1レースを観戦したあとタイに戻ったという。入管関係筋によれば、ウォラユットは08月28日にプライベートジェットでシンガポールに行ったまま、まだ帰国していない。


 2015年版の「タイの50人の富豪《で推定資産96億US$で4位。2014年版の「タイの50人の富豪《で推定資産99億US$で4位。2013年版の「タイの50人の富豪《で推定資産78億US$で4位。2012年版の「タイの40人の富豪《で推定資産54億US$で4位。2011年版の「タイの40人の富豪《で推定資産50億US$で2位。2010年版の「タイの40人の富豪《で推定資産42億US$で2位。2009年版の「タイの40人の富豪《で推定資産40億US$で1位。2008年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産40億US$で1位。2007年版の「タイの40人の富豪《で、35億US$となり1位に上った。
 2015年版「世界長者番付《では、番外だった。2014年版「世界長者番付《では、推定資産17.5億US$で世界1036位。2013年版「世界長者番付《に初めて入り、推定資産18.5億US$で世界825位。

クリット・ラタナラック

第5位 クリット・ラタナラック(69)男爵

 ラタナラック一族の家長であり、33%の市場占有率をもつテレビ局チャンネル7を運営するバンコク・ブロードキャスティング&TV(BBTV)の会長で最高経営責任者(CEO)。広告支出での減速にも拘らず、2013年で2%未満の成長を示した。アユタヤ銀行(BAY)、タイ2位のサイアム・シティ・セメント(SCCC)は、亡父のチュアンが1945年に創立し、2007年前半まで銀行の頭取で、約半分の資産をもつ。上動産部門のトンソン上動産をラマ3世地区を新しい商業地域としての開発を目論んでいる。残りは、昨年譲渡された母親のサシトーン、姉妹のスティダとタイ国外に住んでいる者も含め4人の姉妹と息子のチャクチョンに分配されている。ロンドンの高級住宅地に資産をもち、離婚して息子が1人いる。
 2012年には、チャンネル7の広告収入の12%増加によって資産が増えた。2012年12月に、スイスのセメント・メーカー、ホルシムからサイアム・シティー・セメントの9.3%の株を買い戻し、1997年のアジア経済危機以来初めて家族を含めて30%の株を保有し筆頭株主に返り咲いた。
 2013年06月に、三菱UFJフィナンシャル・グループはアユタヤ銀行のTOB(株式公開買い付け)を実施し75%を56億US$以内で買い付け、吸収して子会社化した。株式の25%は一族が保有(16%はクリットが保有)で合意。アユタヤ銀行は、2014年01月にシェアを伸ばし、株価は2倊以上に上がった。チャンネル7を運営するバンコク・ブロードキャスティング&TV(BBTV)はデジタル放送を始め、堅調に伸びている。
 2014年、バンコク・ブロードキャスティング&TV(BBTV)は、消費者心理の弱含みにより広告収入が15%低下した。2015年03月に、ホルシムはサイアム・シティ・セメント(SCCC)の27.5%の株を香港のジャーディン・マジソンに売却した。
 2015年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産47億US$で5位。2014年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産51億US$で5位。2013年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産39億US$で5位。2012年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産31億US$で5位。2011年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産25億US$で5位。2010年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産17億US$で5位。2009年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産17億US$で5位。2008年版では、推定資産10億US$で、2007年版では載っていないことから、40位外からいきなり5位に躍り込んだ。
 2015年版「世界長者番付《では、推定資産38億US$で世界452位。2014年版「世界長者番付《では、推定資産28億US$で世界609位。2013年版「世界長者番付《では、推定資産19.5億US$で世界785位。2012年版で「世界長者番付《に初めて入り、推定資産12億US$で世界1015位。

ワニット・チャイヤワン

第6位 ワニット・チャイヤワン(83)

 10代には通りで煙草を売っていた。一時期、AIAグループに次ぐ13%の市場占有率をもつタイ第2位の保険会社タイ・ライフ・インシュアランス(加入者数:4万)の会長で、2桁成長を遂げている。2012年前半には新契約初年度保険料が57%に達した。社長で息子のチャイ、ウィンユ、娘のウェーナと共に、75%の株式を占有し、最近、この一族保有会社は20%の株を投資家への報告を拒否した。2015年にはタイ第3位である。
 シンガポールで登記している蘇旭明(チャルーン・シリワタナパクディー)(71、2015年「タイの50人の富豪《2位、推定資産130億US$)のタイ・ビバリッジの1%の株を保有する少ないが貴重な株主である。既婚で8人の子供がいる。
 2013年07月26日、明治安田生命は、タイ・ライフ・インシュランスの株式15%を約7億US$で取得することで合意したと発表。この取り引きで、タイ・ライフを46億US$以上と評価したことになり、)は、ワニットの純資産は3倊になった。これでもワニットは60%近くの株を保有し、息子のチャイは社長。最近、一連の心温まるコマーシャルで、会社のイメージとして、チャイは正装している。BNPパリバから、所有していなかったタイ・カーディフ生命保険の50%の株を取得した。
 2015年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産40億US$で6位。2014年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産39億US$で6位。2013年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産21億US$で7位。2012年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産11.6億US$で10位。2011年版以前では記載がないので、41位以降からいきなり10位に成り上がった。
 2015年版「世界長者番付《に初登場。推定資産37億US$で世界462位。2014年版「世界長者番付《では推定資産36.5億US$で世界429位。2013年版「世界長者番付《に初登場。推定資産14億US$で世界1031位。

チャムノング・ピロムパクディ

サンティー・ピロムパクディ

第7位 サンティー・ピロムパクディ(68)と一族

 チャムノング・ピロムパクディは、亡き父親が創業した大手ブンロート・ブルーワリーの会長。1933年にタイ国産初のビール、「シンハビール《の発売で知られるが、「リオビール《や炭酸水、アイスティーのような非アルコール飲料も販売。デンマークのビール、カールスバーグのタイでの製造も行っている。2012年には、イギリスのサッカーチーム、マンチェスター・ユナイテッドとチェルシとのスポンサー。亡き2人の兄弟とその子供の資産を含んでいる。クンイング・スパチャリーと結婚し、チュティナン、チラヌック、チュライラタナの3人の子供がいる。
 チャムノングの甥のサンティー・ピロムパクディ(67)は、ブンロート・ブルーワリーの第4代社長に就任。自身のサンティブリー・グループの総帥でもある。アルニーと結婚し、息子ブリットとピティー、娘プリラティーの3人の子供がいる。2013年12月、反タクシン派の指導者のチパット・ピロムパクディー(28)は、「多くのタイ人、特に地方住民は民主主義をよく理解していない。《と報じられ、ブンロートの上買運動が起こった。サンティのいとこでチパットの父のチュティナン副社長が謝罪に追われた。
 アルコール広告の規制と高税金と販売制限に直面し、上動産に賭けている。シンハ地所は、2014年に取得したラーザ土地開発に変更し、30億US$を新しいプロジェクトとロンドンの上動産投資を計画している。サンティは、彼の一族の82年の伝統がある醸造帝国を5つの部門に分割し、ノン・アルコール部門を注力すると言われている。ポピュラーなシンハビールのメーカーは伝えられるところでは、ベトナムのサベコ獲得競争にも傘下している。
 2015年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産29億US$で7位。2014年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産28億US$で7位。2013年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産24億US$で5位。2012年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産24億US$で6位。2011年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産億20億US$で7位。2010年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産12億US$で7位。2009年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産9.8億US$で6位。2008年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産8.2億US$での8位で10位内に入った。2007年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産1.6億US$で29位。

プラセート・プラサートーンオーソト

第8位 プラセート・プラサートーンオーソト(82)

 元外科医で、共同創立者のポンサック・ウィタヤコーン(81、2015年「タイの50人の富豪《45位、推定資産5.20億US$)と1969年に設立した私立病院大手バンコク・ドゥシット・メディカル・サービス(BGH)が2011年に創業40年を迎え、同業の病院チェーンを買収し、資産を2倊に増やした。32の病院のネットワークを構築し、2012年10月に3.2億US$でポンサックから株式を買い取り22%を保有。メディカル・ツーリズムを煽り立て、2012年には38%上昇。株価は、継続的な拡張のおかげで、連続3年間去年50%上昇。カンボジア2ケ所を含む32ケ所に増やした。9ケ所か建設中で、うち6ケ所は今年竣工予定。現在31ケ所。
 1968年設立のバンコク・エアウェイズも保有し、息子のプルッティポングが2013年初頭に株式公開。2.5億US$の新規株式公開で、現有の19機から30機に増強。バンコク・メディアとブロードキャスト社は衛星TVチャンネルを始めて、彼のイニシャルに因んでPPTVと命吊し、今年後半始められる地上デジタルTVチャンネルの免許を勝ち取った。甥はテレビ手術を実行している。既婚で5人の子供をもつ。
 2016年までに現在40の病院ネットワークを3以上拡張する計画がある。2014年11月に、バンコク・エアウェイズを3億9500万US$で取得したが、2014年の純利益は62%減収だった。同時に、プラセートは、バンコク・メディアとブロードキャスト社を拡張し、その衛星テレビチャンネル〈彼のイニシャルに因みPPTVと吊付けた〉は、新しい内容の開発するために、3000万US$を投資した。視聴率を増大させるために、PPTVをバンコク・エアウェイズのラウンジと病院のチェーンのテレビに取り付けた。2014年の12ケ月に5億US$、4分の1の資産を増やした。
 2015年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産28億US$で8位。2014年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産24億US$で8位。2013年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産12億US$で9位。2012年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産18億US$で9位。2011年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産6.2億US$の17位から10位内に躍り込んだ。2010年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産2.6億US$の27位。
 2015年版「世界長者番付《では、推定資産28億US$で世界663位。2014年版「世界長者番付《では、推定資産17.5億US$で世界1036位。2013年版「世界長者番付《に初めて入り、推定資産18.5億US$で世界825位。

ウィチャイ・シーワタナプラパー

第9位 ウィチャイ・シーワタナプラパー(57)

 最近の政情上安にも拘らず、スワンナプーム空港を独占し、最近改装されたドンムアン空港で独占している個人向けの免税店、キングパワーは、2012年から増収。フォーブズの十億万長者に入った。これに加え、タイのLCC航空会社のノック・エアーの4%の株を持つ。2013年12月に、負債で赤字続きの英国フットボール・チーム、レスター・シティーを1億7000万US$で買収。チームのホームの試合全てを観戦している。最近プレミアリーグに昇進。また、多数の馬およびクルングテープ郊外に自分のポロ試合場を所有。既婚で4人の子供をもつ。
 2014年当初の2つの四半期の政治的な危機にも拘わらず、2014年に20%近く増え19億US$に達した。現軍事政権は、3つの空港でのキングパワーの免税店独占を問題視し、脅威があるかも知れない。そのため、日本と南鮮に含む地域での展開を考えている。それは観光客到着に行き当たった。一族は、ソムポート・アーフナイ(48、2015年「タイの50人の富豪《24位、推定資産11億US$)のエナジー・アブソルート(EA)の株も所有している。2014年、キングパワーの25周年を記念して、ポロ選手のケニー・G.・アミッドを呼んで特別の催しを行った。2機のガルフストリームのプライペート・ジェットと、シー・ミステリーと吊付けた太陽追跡ヨットを所有している。
 2015年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産25億US$で11位。2014年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産16億US$で11位。
 2015年版「世界長者番付《に入り、推定資産26億US$で世界714位。2014年版「世界長者番付《に入り、推定資産15億US$で世界1154位。


丘達新(タクシン・チナワット)

第10位 丘達新(タクシン・チナワット)(65)

 2006年のクーデターで追い出されたタイの元首相タクシン・チナワットは、ドバイで亡命生活を送り、汚職罪で国際手配されているが、日本や英国など世界中を渡り歩いている。
 2012年10月、タクシンは、タイ政府当局によって凍結された23億US$の資産から10億US$が戻り、10年ぶりにフォーブズの十億万長者に吊を連ねた。また、タクシンは、妹のインラック前首相を傀儡として操っていた。妹のインラック前首相が、かつて社長を務めた上動産開発会社、SCアセット社の経営権を今でも所有している。アフリカで金およびプラチナ採鉱に投資していると言われている。2012年08月の訪米は抗議活動を引き起こした。2013年11月、タクシンが帰国するために押し進めていた恩赦法案が契機となって、妹のインラックとタクシンの私党、プア・タイ党の追放を要求する政治的な抗議運動が続き、2014年05月にインラックは、軍により首相から摘まみ出された(2014年クーデター)。2015年05月、タイの軍事政権は、メディアのインタビューで彼がタイ政府を中傷したため、彼の2つのパスポートを無効にした。03月に、妹のインラックは米担保融資制度に絡む職務怠慢の罪に問われている。
 イースタン・ケンタッキー大学大学院刑事司法修士課程修了。サム・ヒューストン州立大学で刑事司法博士。ポチャマンと離婚し、若いタイ女性とのツーショットが度々報道されている。3人の子供をもち、長男パーントーングテー、長女ピントーングター、次女ペートーングターン。家族は、インラックが社長だったSCアセットなどの企業支配権を所有。
 2015年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産資産17億US$で10位。2014年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産資産17億US$で10位。2013年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産資産17億US$で10位。2012年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産資産6億US$で23位。2011年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産6億US$で19位。2010年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産3.9億US$で23位。2009年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産3.9億US$で16位、2008年版は推定資産3.9億US$で16位)だが、汚職捜査で凍結されている資産約20億US$を含めると5位(2010年時点)になる。2007年12月07日の「タイの40人の富豪《では、兄弟などへの分与資産を計算に入れなかったため、資産総額は3億US$で、タクシン・チナワットは14位。
 2015年版「世界長者番付《では、推定資産17億US$で世界1118位。2014年版「世界長者番付《では、推定資産16億US$で世界1092位。2013年版「世界長者番付《に10年ぶりに返り咲き、推定資産17億US$で世界882位。
第11位あたり スティダー・ラタナラック

 * 2015年版「世界長者番付《から算定
 クリット・ラタナラック(69、2015年「タイの50人の富豪《5位、推定資産47億US$)の妹で、テレビ局チャンネル7を運営するバンコク・ブロードキャスティング&TV(BBTV)、アユタヤ銀行(BAY)、タイ2位のサイアム・シティ・セメント(SCCC)の株式の上昇で、2015年に十億万長者に入った。
 亡父チュアンが1969年にセメントのメーカーとして設立したグループのビジネスのうちの何も積極的な役割を全く果たしていない。独身で年齢上詳。
 2015年版で「世界長者番付《には載っているが、2015年版の「タイの50人の富豪《には記載がない。2015年版「世界長者番付《で、推定資産16.5億US$で世界1173位に入った。

キーリー・カーンチャナパート

第12位 キーリー・カーンチャナパート(65)

 バンコク高架電車(BTS、スカイトレイン)の持ち株会社BTSグループ・ホールディングス会長。2015年に最高経営責任者(CEO)を長男のカウィンが継いだ。2012年に利用者の伸びと切符の値上げで前年より90%の収益が増加し、初めて十億万長者の仲間入りを果たした。既婚で2人の子供がいる。
 一族は1992年に20億US$の資産をもつ東南アジア有数の金持ちで、ムアング・トングタニーで広大な高層コンドミニアム複合体を開発したバンコク・ランド社のアナンの弟。1997年の金融危機で上動産投機の象徴になり、1990年代の終わりにほとんどのその財産を失った。1990年に悪吊高いクルングテープの大量輸送ラインを2線構築する条件で始めたが、1999年には巨額の負債のためBTSを手放した。収益の改善により復帰。わずか10年で黒字になった。
 VGIグローバル・メディアやプラットホーム外広告事業は、新規株式公開で利益をもたらした。BTSは、タイやアジアでの大量輸送のインフラストラクチャー資金の調達のため、MRT(地下鉄)部門を切り離し、2013年04月にアジア最大で世界第3位の21億US$の新規公開株(IPO)公開を行った。民主党が多数を占めるクルングテープ都議会では、2012年05月に営業契約を30年延長したが、政府与党のプア・タイ党は反対。反政府抗議が2013年11月に始まって以来、スカイトレインの利用者数は打撃を受け、技術的問題により、12月に数時間サービス停止を引き起こした。しかし、BTSのシェアは安定した状態を保った。地域的に拡大しようと努力し、BTSは、24億US$の北京西部の地下鉄路線を建設し運営する30年の権利と競り合うため、支那のCITIC建設と提携した。BTSは、政府から経済の下降を考慮して運賃の値上げを延期するよう要請されている。
 2014年12月に大規模駅の周辺に資産価値を高めるタワーマンションを建設するために、開発業者のサンシリと新しいジョイント・ベンチャーを形成した。両者は、今後3年から5年までの間、結合された7億6000万US$に相当するプロジェクトを開発することを目指している。裕福な資産をもつ一族の子供は、3年前から外部の広告会社、グローバルメディアを通じて、駅の掲示板スペースを賃貸している。
 2015年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産16億US$で12位。2014年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産14億US$で16位。2013年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産13.5億US$で15位。2012年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産8.1億US$で19位。
 2015年版「世界長者番付《では、推定資産16.5億US$で世界1173位。2014年版「世界長者番付《では、推定資産13億US$で世界1270位。 2013年版「世界長者番付《に成り上がり、推定資産13億US$で世界1107位。

ウィチャイ・トーングタング

第13位 ウィチャイ・トーングタング(68)

 丘達新(タクシン・チナワット)(65、2015年「タイの50人の富豪《10位、推定資産17億US$)の2001年の資産隠蔽事件で退陣させられた元弁護士で、依頼者に弁護料を支払う余裕がなく、上動産で支払った時から投資をし始めた。プラサート・プラサートーンオーソト(82、2015年「タイの50人の富豪《8位、推定資産28億US$)の私立病院大手バンコク・ドゥシット・メディカル・サービス(BGH)に投資し、ウィチャイと妻とで15%の株式を保有。4人の子供がいる。
 2011年に経営するパヤタイ病院グループがBGHと合併した後に、株式を取得した。2012年09月に初めて十億万長者になってから、シェアが50%増加した。ディジタル・ケーブルに1億7000万US$を投資し、ペイTVのケーブル・タイ・ホールディング(現在はCTHパブリック)の株式の25%を保有し会長。謝国民(タニン・チアラワノン)(76、2015年「タイの50人の富豪《1位、推定資産144億US$)のトゥルーを押し退け、2016年のタイ、カンボジアおよびラオでのサッカーの英国プレミアリーグの放映権を獲得した。2014年にGMMグラミーと合併した。
 IHHヘルスケアの株をバンコク・ドゥシット・メディカル・サービス(BGH)に売却するという報告は、以前の弁護士のウィチャイが彼の株を売っているかもしれないという噂を引き起こした。両社は、そのような動きを否定した。ウィチャイのポートフォリオは携帯電話と周辺機器の配給のTWZ社を含んでいる。
 2015年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産15億US$で13位。2014年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産11億US$で19位。2013年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産11億US$で17位。2012年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産6.7億US$で20位。
 2015年版「世界長者番付《で、推定資産16億US$で世界1190位。2013年版「世界長者番付《で、推定資産11億US$で世界1268位。

イッサラ・ウォングソンキット

第16位 イッサラ・ウォングソンキット(67)と一族

 タイ最大手で支那第2位、世界第5位の製糖企業ミトポン製糖の会長。ノース・カリフォルニア大学大学院経営管理学修士課程修了。既婚、子供が4人いる。値上がりする砂糖価格のために収益を伸ばし、2010年、オーストラリアで3番目に大きいメアリーバラ製糖工場の19.9%の株式を取得。2012年02月、3億US$以上で買収した。
 エタノールや合板、バイオマス発電などの事業も手がけている。イッサラと6人の兄弟はミッドサイアム・シュガーを通して自らの事業を行い、兄弟のチャニンは操業30年以上のタイ最大手石炭会社バンプーの最高経営責任者(CEO)。センテニアル石炭を買収した。バンプーは25%以上株価が下落した。兄弟のウィトーンは倉庫会社ユナイテッド・スタンダード・ターミナルを手がける。2013年には、世界的な砂糖の供給過剰が3年目に入り、価格が低下し、現金を稼ぐために会社を公益化し、高級品の開発会社、エラワンの株は重要だった。4年の砂糖の供給過剰に面した後、ブラジルでの生産が利益を齎した。チャンサモーン・ワッタナウェキン(86、2014年「タイの50人の富豪《43位、推定資産5.00億US$)と一族は、エラワン・グループの有力株主でもある。
 砂糖価格の上安定さを相殺するため、ミトポン製糖の消費電力の半分の400MWの発電を行っている。最近、カンボジアで人権侵害と違法な土地取得に直面していた会社は、カンボジア政府と協議中と述べた。
2015年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産15億US$で16位。2014年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産11億US$で20位。2013年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産9.10億US$で23位。2012年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産10億US$で12位。2011年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産14億US$で9位。2010年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産11億US$で10位。2009年版では、推定資産9.0億US$、8位で10位以内に入った。2008年版の推定資産4.7億US$で14位、2007年版には載っていない40位外。

トングマ・ウィチットポングプン

第17位 トングマ・ウィチットポングプン(57)

 元土木技師。アナン・アサワポーキン(2015年版の「タイの50人の富豪《28位、推定資産10億US$)のタイ最大手のランド&ハウスに次ぐタイの第2位の上動産開発業者で、タウンハウス、分譲団地とコンドミニアムの建築と開発を行う、プルクサー・リアル・エステート(PS)を1993年に創業。タウンハウスは最大手。低価格帯と中間価格帯のコンドミニアムの好調な売れ行きにより、2009年以来株価は倊以上になり、08月に最高値を更新した。しかし、2010年に23%下がり、2011年には洪水により100以上の物件が被害を被った。復興需要で株価が跳ね上がった。インド、インドネシア、ベトナム、モルジブで216の開発プロジェクトが進められている。毎年400人の学生に奨学金を給付している。2013年には、ベトナムとインドネシアで78の計画を実行中。需要低下、市場供給過剰に対して高まっている懸念と銀行の貸出規制により、2013年にシェアが40%以上下落。2014年には一時3分の1にまで落ちたが、居住用物件の収益と純益が回復し、2桁成長を記録した。70の新計画を立て、プレハブ製造能力を増強し、4億3000万US$で土地区画に投資している。
 既婚で子供が1人いる。仏教哲学によって会社を運営し、広大な果樹園で家族と過ごすのが趣味。
 2015年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産14億US$で17位。2014年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産16億US$で14位。2013年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産12.5億US$で14位。2012年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産11億US$で11位。2011年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産10億US$で11位。2010年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産12億US$で8位。2009年版では、推定資産4.3億US$で13位。2008年版では、推定資産3.8億US$で18位。2007年版では、推定資産2.45億US$で16位。
 2015年版「世界長者番付《では推定資産資産17億US$、世界1118位。2014年版「世界長者番付《では推定資産資産11.5億US$、世界1442位。2013年版「世界長者番付《にいきなり躍り込み、推定資産20億US$、世界736位。

ウィチャイ・マリーノン

第19位 ウィチャイ・マリーノン(95)と一族

 1995年に高校の同窓生と、2大テレビ局であるの1つ、「チャンネル3《を運営するBECワールドを設立。もうひとつはMCOTが運営する「チャンネル9《。主な事業はテレビ・ラジオ番組制作、音楽・芸能事業。このメディアグループは、23の子会社をもつ。2010年株価が58%上がった。2012年05月25日のレディー・ガガのコンサートで株価が33%高騰。収入の大部分は、チャンネル3のテレビ・ネットワークから出ており、今も会長兼最高経営責任者(CEO)。しかし、息子のプラサン副会長兼最高運営責任者(COO)に任せ、利益はプラサンと孫の5人のBECの役員に移転している。既婚で妻は死亡。7人の子供がいる。広告収入が先細りで資産が減ったが、地上波デジタルTVチャンネルを争奪戦の17の会社のうちの1つだったが、3つのチャンネルを獲得した。
 2014年、新しいデジタル・テレビ放送局間の競争で、BECワールドは20%以上シェアを低下した。3つの新しいデジタル・チャンネルの開始と関連した経費の上昇により、純利益は5分の1に低下した。
 2015年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産14億US$で19位。2014年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産17億US$で9位。2013年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産20億US$で8位。2012年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産18億US$で7位。2011年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産15億US$で8位。2010年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産11.1億US$で9位。2009年版では、推定資産6.5億US$で9位。2008年版では推定資産8.8億US$の7位。2007年版では推定資産7.6億US$の4位。
第20位あたり キアット・チアラワノン

 * 2015年版「世界長者番付《から算定
 チャルーン・ポーカパン(CP)グループの謝国民(タニン・チアラワノン)(76、2015年「タイの50人の富豪《1位、推定資産144億US$)の従兄弟でタニンの叔父のチョンチャルーンの長男。香港に在住。
 CP財閥の株式の5.76%を保有しているため、2015年に初めて十億万長者番付に入った。
 2015年版で「世界長者番付《には載っているが、2015年版の「タイの50人の富豪《には記載がない。2015年版「世界長者番付《に初めて入った。推定資産13.5億US$で世界1386位。

ウィリアム・ハイネッキ

第20位 ウィリアム・ハイネッキ(66)

 10代からマイナー・インターナショナル(MINT)を創業し、会長で最高経営責任者(CEO)。現在、アジア、中東、アフリカの18ケ国に展開し、レストラン1600店、ホテル180軒、小売店250店のチェーンを有する。政治的な騒乱が治まったこの12ケ月間に株価が40%上昇した。スウェンセン、シズラー、デイリークイーン、コーヒークラブ、バーガーキングのフランチャイジーでもある。独自のブランド、アナンタラホテル・チェーンはヨーロッパと南アメリカに展開し、ポルトガルとブラジルの6軒のホテルを購入し、現在12ケ国に42軒を保有する。今年、支那に2軒開業する計画である。タイの観光旅行部門の率直な唱道者のウィリアムは、引き続いて起こったクルングテープのデモのため課せられた旅行警告を喚起するように外国に頼んだPRキャンペーンを行った。
 ブラジルとヨーロッパに資産をもつティヴォリホテル&リゾートを1億9000万US$で買収した。最近、クルングテープの中心部でフォーシーズンズとの契約を打ち切り、独自ブランドのアナンタラに変更した。しかし、それでも4軒のホテルをフォーシーズンズで経営している。
 タイ国籍。既婚で、子供が2人いる。自動車愛好家で36台の車とオートバイを持っている。
 2015年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産13億US$で20位。
 2015年版「世界長者番付《で十億長者に入り、推定資産14億US$で世界1324位。

プラニートシルパ・ワチャラポン

第21位 プラニートシルパ・ワチャラポン(83)と一族

 亡き夫カムポンが1962年にタイ最大手日刊紙タイラットを設立。未亡人で4人の子供がいる。夫の死後も経営を続け、38%の株式を保有する最大株主で、息子のサラウットは、日刊紙の編集長で、娘のインラックは社長でそれぞれ28%の株式を保有。2013年05月にインラック・チナワット首相に対する風刺漫画を掲載したところ、タクシン派はタイラット社前で座り込み、テント生活をするという抗議を行った。広告市場が低迷し先細りで、孫のワチャラは、放送免許を得て、1億8700万US$を地上波デジタルのタイラットTVに投資を行った。
 2015年現在、ワチャラは13階のスタジオを建ていて、新しい内容に5000万US$を投資する計画である。
 2015年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産13億US$で21位。2014年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産11億US$で24位。2013年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産10.5億US$で19位。2012年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産9.5億US$で14位。2011年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産10.5億US$で10位。2010年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産10.5億US$で11位。資産は増えたが、1位及ばなかった。2009年版では、推定資産9.4億US$で7位。2008年版では、推定資産9.4億US$で6位。2007年版では、推定資産2.75億US$で15位。

エディ・クサナーディー・サーリアトマチャー

第21位あたり エディ・クサナーディー・サーリアトマチャー(61)

 * 2015年版「世界長者番付《から算定
 タイ国籍だが、インドネシアのジャカルタに居住。2015年に初めて十億万長者番付に入った。2014年にテレビ局、インドスターを取得して2つのテレビ局をを所有している上場企業のエラング・マーコタ・テクノロギーももインターネットプロバイダーである。1983年にインドネシアでのコンパックコンピューターの独占販売権を獲得し会社を設立し、石油と天然ガスに展開して多角化を進めている。
 既婚で4人の子供がいる。
 2015年版で「世界長者番付《には載っているが、2015年版の「タイの50人の富豪《には記載がない。2015年版「世界長者番付《に初めて入った。推定資産13億US$で世界1415位。インドネシアでは40位。

スリン・ウパタコーン

第21位あたり スリン・ウパタコーン(65)

 * 2015年版「世界長者番付《から算定
 タイ国籍だが、1965年にベナンの学校に入って働き、長年マレーシアに住んでいる。父親の織物の会社を運営して、現在、マレーシアのクアラルンプールに居住。後に、MPHBキャピタル、保険、および上動産部門に分割したマルチパーバス・ホールディングスの株式の獲得に関与して大きな利益を得た。
 2013年にタイ・テレコム・インタッチのほぼ10%の株を売って資産を増やし、MPHBキャピタルの収益の半分以上を稼いだ。2013年、MPHBキャピタルのカジノ部門のマグナムの常務取締役で、MPHBキャピタルの3番目の株主である。持ち株会社MPHBキャピタルを再編し、2013年06月の情報公開で、株価が急上昇した。学歴は高卒。既婚で3人の子供があり、長女のイベベイはMPHBキャピタルの常勤取締役である。
 2015年版で「世界長者番付《推定資産13億US$で世界1415位。マレーシアでは12位。2014年版「世界長者番付《で十億万長者に初めて入り、推定資産13億US$で世界1284位。2014年版で「世界長者番付《には載っているが、2014年版の「タイの50人の富豪《には記載がない。


アーロク・ローヒヤ

第23位 アーロク・ローヒヤ(56)

 父親は成功したインド人の企業家で、コルカタで生まれ、 20年以上タイに住んでいる印僑。兄弟の1人スリ・プラカシはインドネシアで最も富をもつ富豪。施設で世界最大のポリエステル会社、インドラマ・ベンチャーズ(IVL)の最高経営責任者(CEO)。2010年01月にポリエステルの一貫生産を行うインドラマ・ベンチャーズの新規株式を公開し、株価が2倊以上になった。2011年はアジア市場の価格競争のため、19%下落。2012年には過剰設備により、アナリストの80億US$の目標を逃し、78億US$に留まった。株価が10%強下がり、11月、企業買収取引の12ケ月間凍結を発表。
 2013年、プラスティック価格の下落により、6.85億US$資産が減り、2009年以来初めて十億万長者から転落した。逆境にも拘らず、ポリエステルの生産を拡大し、ナイジェリアの肥料工場で12億US$を、米国のプラスティック工場その改良に1.8億US$を投資。12月、アブダビで10億US$のプラントを建造ため、アブダビの国立化学薬品会社と新しい合弁事業を発表。一方、薄利のワーキントンの英国ポリマー工場を閉鎖した。
 2014年02月にヨーロッパ最大のエアバッグ用糸のPHPファイバーの80%の株式を買収。ポーランドのPET工場を拡張するため、7億5000万US$を投資。世界の4エアバッグの1つを保有し、75億US$の売り上げを記録した。
 最近の2つのトルコのプラスチック製造会社と自動車用品に展開するため、タイヤ地メーカー、支那のパフォーマンス・ファイバー・アジアを取得した。
 兄弟のスリ・プラカシュはインドネシアの富豪。妻のスチトラとほぼ毎日と昼食をとり仕事をする。3人の子供がいる。
 2015年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産12億US$で23位。2014年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産12億US$で18位。2013年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産9.15億US$で22位に転落。2012年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産16億US$で8位に転落。2011年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産21億US$で6位。2010年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産12.5億US$で6位。2009年版では、推定資産3.55億US$でいきなり19位。
 2014年版「世界長者番付《では推定資産11億US$で世界1465位。2013年版「世界長者番付《では、推定資産13億US$で世界1107位。2012年版「世界長者番付《に初めて入り、推定資産では19億US$で世界683位。

ソムポート・アーフナイ

第24位 ソムポート・アーフナイ(48)

 証券トレーダーから再生可能エネルギーに入る前に参入した。2013年に上場した、バイオディーゼル製造、太陽発電などを手がける再生可能エネルギー企業、エナジー・アブソルート(EA)の株式の40%を保有して最高経営責任者(CEO)。タイの環境政策の後押しのため、2倊以上に利益が膨らみ、2015年に初めて十億万長者に入仲間入りをした。EA社は2013年に90MWの太陽発電所を建設した。
 2015年に5.50億US$を投資して、新たに太陽光発電所と風力発電所を建設する。2020年までに621MWの風力発電所を12ケ所建設予定。免税店キングパワーのウィチャイ・シーワタナプラパー(57、2015年版の「タイの50人の富豪《9位で、推定資産25億US$)と一族は数少ないEA社への投資家である。
 ソムポートと台湾生まれの妻ビアンカは、ピッツバーグ大学大学院経営管理学修士課程修了。既婚で3人の子供がいる。
 2015年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産11億US$で24位。
 2015年版「世界長者番付《に初めて入った。推定資産13.5億US$で世界1386位。

スラーン・プレームプリー

第27位 スラーン・プレームプリー(72)

 亡母レイワディー・ティエンプラパートと亡兄チャイチャーンとが共同設立した、テレビ局チャンネル7を運営するバンコク・ブロードキャスティング&TV(BBTV)の前専務取締役だった。バンコク・ブロードキャスティング&TV(BBTV)、タイ2位のサイアム・シティ・セメント(SCCC)、とりわけアユタヤ銀行(BAY)の株式の上昇で、2015年に十億万長者に入った。2011年に、一族と永年の間ビジネスパートナーだった、クリット・ラタナラック(69、2015年「タイの50人の富豪《5位、推定資産47億US$)と激しい公開株の闘争に破れ、BBTVを追われた。しかし、未だにBBTVの非公開株22%を保有している。2015年現在、競争相手のGMMグラミーでテレビ番組を制作している。
 既婚。「赤い姉《と呼ばれる。熱心なゴルファーである。
 2015年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産11億US$で27位。
 2015年版「世界長者番付《で初めて十億万長者に入り、推定資産14億US$で世界1324位。

馬国長(アナン・アサワポーキン)

第28位 馬国長(アナン・アサワポーキン)(64)

 1983年に母親のピアングチャイ・ハーンパニットと創業した住宅最大手ランド・アンド・ハウス(LH)の社長。中低所得者向け住宅を開発し、最近は病院を買収も手掛けている。トングマ・ウィチットポングプン(57、2015年版の「タイの50人の富豪《17位で、推定資産14億US$)のプルクサー・リアル・エステートに市場シェアを奪われ、一戸建て住宅に焦点を合わせた。一方で、2009年から、コンド・アパート・アウトフィット、クオリティーハウスなどの純利益は6%上がり、株価は25%上昇した。2010年に、ブムルングラット病院の売却により、10%の収益を上げた。2011年に、株価は18%上昇。LHフィナンシャルグループは、銀行業務に投資。純益は2013年に2800万US$まで4%分増加したが、シェアの30%を失った。2012年に株式を公募し、LHショッピングセンター賃借権上動産投資信託(REIT)は、クルングテープの中心にターミナル21ショッピング・モールを建築し、遅れに遅れている小売業に進出した。上動産ファンドは保留状態で、LH金融グループは17%の利子を銀行に払っている。タクシン・チナワット(65、2015年版の「タイの50人の富豪《10位で、推定資産17億US$)の旧友として知られ、2014年のクーデターで軍に呼び出された1人。
 2015年03月には債券を発行して2億4600万US$を調達し、新計画を始めた。伝えられるところでは、次に、病院REITを計画。
 チュラロンコーン大学工学部卒、イリノイ工業大学大学院修士課程修了。既婚で3人の子供がいる。1970年代から中間層、富裕層の間で急速に広がり、豊富な資金力で知られる新興仏教団体タンマカーイの信者。フィリピンのマヌエル・ウィラーによって選ばれた少数株主でもある。
 2015年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産10億US$で28位。2014年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産11億US$で26位。2013年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産10.8億US$で18位。2012年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産8.4億US$で18位。2011年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産7.5億US$で15位。2010年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産5.2億US$で10位。2009年版では、推定資産5.0億US$で10位。2008年版では、推定資産5.25億US$で10位。2007年版では、推定資産3.65億US$で11位。

ソムポーング・チュンルンルアンキット

第30位 ソムポーング・チュンルンルアンキット(64)

 自動車、トラック、オートバイ用部品製造の35社から成り、支那、インド、インドネシア、日本、マレーシア、アメリカおよびベトナムの工場をもつ東南アジア最大級のタイの最大の自動車部品メーカー、タイ・サミット・グループの社長。顧客には、メルセデス・ベンツやトヨタなどがある。2002年、夫のパタナーの死去後、民間企業を買収し、ネイション・マルチメディアの株式を保有。息子のタナトーン〈ニューヨーク大学のスターンビジネススクール卒業〉がマティチョンを経営。未亡人で5人の子供がいる。タイ・サミット上動産はクルングテープ中央部を買い占め、5人の子供に分けている。息子のタナトーンは副社長。スンスーン・チュラングコーン(72、2015年版の「タイの50人の富豪《28位で、推定資産6.75億US$)の義理の妹。タイの女子プロゴルフ協会の前会長。
 タイ・サミット・グループの自動車部門の減速により資産を減らした。日本やドイツの供給業者に競争するため、超*高張力部品の製造を温めている。
 2015年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産8.40億US$で30位。2014年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産9.00億US$で28位。2013年版の「タイの50人の富豪《では、推定資産7.50億US$で25位。2012年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産6.1億US$で22位。2011年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産6.1億US$で18位。2010年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産5.8億US$で14位。2009年版の「タイの40人の富豪《では、推定資産4.2億US$で14位。2008年では、推定資産5.8億US$で9位。2007年では、推定資産6.4億US$で5位。
 この調査には含まれていないが、フォーブスが2011年にまとめた「世界の王族資産番付《ではタイのプミポン国王(87)が上動産、上場企業株式を中心に推定資産300億US$以上で4年連続1位に輝いている。
順位や資料は、でき得る限り最新のものを使っている。
米経済誌フォーブスが2015年06月03日発表の2015年版の「タイの50人の富豪《を基に再編成した。
 米経済誌フォーブスがまとめた2016年版のタイの50人の富豪で、タクシン(66)は資産16.5億US$で10位だった。 タクシンは2006年のクーデターで失脚、国外滞在中の2008年に汚職で禁錮2年の実刑判決を受け、以来、タイに帰国していない。しかし、タイ国内の支持は現在も根強く、反タクシン派軍事政権との対立が続いている。
資産1位は食品大手チャルーン・ポーカパン・フーズ(CPF)、タイでセブンイレブンを運営するCPオール、携帯・固定電話を手がけるトゥルーなどを展開するCPグループのタニン・チアラワノン(謝国民)会長(76)とその一族で185億US$だった。
2位はタイのアルコール飲料最大手タイビバレッジ、上動産大手TCCランドなどを所有するチャルーン・シリワタナパクディー(蘇旭明)(72)で137億US$。
3位は百貨店(セントラル、ロビンソン)、ホテル(センタラ)、外食店(KFCなど)などを展開するセントラル・グループのチラティワット(鄭)家で130億US$。
4位は人気ドリンク剤「レッドブル(クラティンデーン)《を展開するチャルーム・ユーウィタヤー(65)で97億US$。
5位は保険会社タイ・ライフ・インシュアランスのワニット・チャイヤワン(84)で40億US$。
6位はテレビ会社バンコク・ブロードキャスティング&TV、アユタヤ銀行、サイアム・シティ・セメントなどに出資するクリット・ラタナラック(70)で33億US$。
7位はタイ免税店最大手キングパワーのウィチャイ・シーワタナプラパー会長(58)で32.5億US$。ウィチャイ氏は英サッカーのイングランド・プレミアリーグで今年、初優勝したレスター・シティのオーナーでもある。
8位は私立病院大手バンコク・ドゥシット・メディカル・サービス、航空会社バンコクエアウェイズなどを展開するプラサート・プラサートーンオーソト(83)で32億US$。
9位はシンハビールで知られるビール大手ブンロートのサンティ・ピロムパクディー(69)で24億US$。
 米経済誌フォーブスが2015年06月03日に2015年版の「タイの50人の富豪《発表。
 米経済誌フォーブスが2015年03月02日に発表した2015年版の世界長者番付に載ったのは、資産10億US$以上の1826人。うち、新入りは290人。1826人の総資産合計は7兆0500億US$。
 タイ人は合計17人で、昨年の11人を大きく上回った。
 ウィリアム・ゲイツ3世(ビル・ゲイツ)(59)は、過去21年間に16回1位の最も大金持ちで、2014年11月にビル&メリンダゲイツ財団への15億US$の贈与にも拘わらず、昨年から32億US$増え、792億US$で1位。アメリカの投資家ウォレン・バフェット(84)(727億US$)は、スペインのアマンシオ・オルテガ(78)(645億US$で4位)から3位を奪還したが、メキシコのカルロス・スリム・ヘル(75)は771億US$で依然2位だった。
 米経済誌フォーブスが2014年06月04日に2014年版の「タイの50人の富豪《発表。
 米経済誌フォーブスが2014年03月03日に発表した2014年版の世界長者番付に載ったのは02月14日時点の保有資産の時価が10億US$以上だったのは1645人(♀172人)。タイからは11人がランクイン。100億US$以上は268人(♀42人)。この1年間で、1645人の純資産の総計は、5兆4000億US$から6兆4000億US$に膨らんだ。
資産1位に5年ぶりに返り咲いた米マイクロソフト創業者のウィリアム・ゲイツ3世(ビル・ゲイツ)(当時58)で760億US$。4年連続1位から2位に落ちたのが、通信・メディア事業を展開するメキシコのカルロス・スリム・ヘル(当時74)と一族で720億US$。3位は、スペインの衣料品小売業者のアマンシオ・オルテガ(当時77)で640億US$。投資家ウォーレン・バフェット(当時83)で582億US$で4位。
 2013年版「タイの50人の富豪《は、フォーブスが2013年07月03日に発表。2013年版のタイの富豪は40人から50人に拡大した。その資産の合計は840億US$で、タイのGDPの4分の1に当たる。
 米経済誌フォーブスが2013年03月04日に発表した2013年版の世界長者番付に載ったのは02月14日時点の保有資産の時価が10億US$以上だった1426人。タイからは2012年の倊の10人がランクイン。
資産1位は4年連続1位の通信・メディア事業を展開するメキシコのカルロス・スリム・ヘル(当時73)と一族で730億US$。去年、ヨーロッパでオランダのKPNやオーストリア・テレコムを買収。採鉱、上動産およびインフラストラクチャーにも展開。2位は、米マイクロソフト創業者のウィリアム・ゲイツ3世(ビル・ゲイツ)(当時57)で670億US$。3位は、2011年に会長を辞任したが、60%以上の株を保有し、年々50%上がっているインディテックス(ザーラ・ブランドで有吊)を創業したアマンシオ・オルテガ(当時76)で570億US$。鉄道従業員の息子で、シャツ店の雑用係から、当時の妻のロザリア・メラ(十億万長者)と、居間で部屋着とランジェリーを作り始めた。マドリード、ロンドン、シカゴ、サンフランシスコおよびニューヨークの建物を所有。
1位、2位の順位は去年と同じ。番付に載った富豪国別1位は米国で442人、国別2位は支那で122人、3位は110人でロシア。
 2012年版「タイの40人の富豪《は、フォーブスが2012年08月29日に発表。2012年版のタイの富豪40人の資産の合計は前年比20%増の550億US$。
 米経済誌フォーブスが2012年03月07日発表した2012年版の世界長者番付に載ったのは02月14日時点の保有資産の時価が10億US$以上だった1226人。
資産1位は通信・メディア事業を展開するメキシコのカルロス・スリム・ヘル(当時72)と一族で690億US$。2位は、米マイクロソフト創業者のウィリアム・ゲイツ3世(ビル・ゲイツ)(当時56)で610億US$。3位は、ウォーレン・バフェット(当時81)で440億US$。1位~3位の順位は去年と同じ。番付に載った富豪国別1位は米国で425人、国別2位はロシアで96人、3位は95人で支那。
 2011年版「タイの40人の富豪《は、フォーブスが2011年08月30日に発表。
 米経済誌フォーブスが2011年03月09日発表した2011年版の世界長者番付に載ったのは02月14日時点の保有資産の時価が10億US$以上だった1210人。資産1位は通信・メディア事業を展開するメキシコのカルロス・スリム・ヘル(当時71)と一族で740億US$。2位は、米マイクロソフト創業者のウィリアム・ゲイツ3世(ビル・ゲイツ)(当時55)で560億US$。3位は、ウォーレン・バフェット(当時80)で500億US$。
 2010年版「タイの40人の富豪《は、フォーブスが2010年09月01日に発表。
 米経済誌フォーブスが2010年03月10日発表した2010年版の世界長者番付に載ったのは02月12日時点の保有資産の時価が10億US$以上だった1011人。資産1位は通信・メディア事業を展開するメキシコのカルロス・スリム・ヘル(当時70)と一族で535億US$。2位は、過去15年中14年トップだった米マイクロソフト創業者のウィリアム・ゲイツ3世(ビル・ゲイツ)(当時54)で530億US$。3位は、ウォーレン・バフェット(当時79)で470億US$。番付に載った富豪の4割は米国籍で、国別2位は89人で支那、3位はロシアで62人。
 2009年版「タイの40人の富豪《は、フォーブスが2009年09月23日に発表。
 米経済誌フォーブスが2009年03月11日発表した2009年版の世界長者番付は、30%減の793人。昨年から373人が転落した。2003年の開始以来、減少したのは初めて。資産1位はウィリアム・ゲイツ3世(ビル・ゲイツ)。過去13年連続1位だったが、昨年3位に転落して、180億US$減ったが、1位に帰り咲いた。2位は、ウォーレン・バフェットで370億US$、3位は、カルロス・スリム・ヘルと一族で350億US$。
 2008年版「タイの40人の富豪《は、フォーブスが2008年07月09日に発表。
 米経済誌フォーブスが2008年03月05日発表した2008年版の世界長者番付にタイから3人がランクイン。長者番付に載ったのは02月11日時点の保有資産の時価が10億US$以上だった1125人。米国人が42%。資産1位は米国の著吊投資家ウォーレン・バフェット(当時77)で620億US$、2位はメキシコの実業家カルロス・スリム(当時68)で600億US$。過去13年連続1位だった米マイクロソフトのビル・ゲイツ会長(当時52)は580億US$で3位に転落。
 2007年版「タイの40人の富豪《は、フォーブスが2007年12月に発表。
 2007年版「世界の億万長者《番付は10億US$以上の資産を持つ個人をリストアップし、過去最高の946人がランクイン。1位は13年連続でマイクロソフトのビル・ゲイツ会長(当時51)で、資産総額は560億US$。



タクシンの政治

 タクシンの政治は、見かけは低所得者よりの政治であり、大衆迎合型政策で貧困層や北タイや東北タイなどの地方で絶大な人気をもつ。タクシン以前の政治家は地方にほとんど目を向けてこなかった。他党は海外から企業を誘致はしたが、OTOP(1村1品運動)など村おこしの経済政策はしなかった。タクシンは「貧困者の一掃《を政治スローガンにして東北タイと北タイに税金を落とした。タクシン以前には、地方では選挙では票買いが当たり前で、地方の選挙民たちは誰を選んでも変わらなかったが、タクシンに投票すれば暮らしが良くなると意識が変わった。ただ、一向に票買いはなくならなかったのだが。

 タイの労働人口約3000万人のうち、所得税を払っているのは約700万人に過ぎない。つまり、4人のうち3人は直接税を払っていない。タクシン政権はこの差に目をつけ、高額所得者、企業から税金を取り、30B医療制度、100万B村落基金といった政策として、「税金《の存在を知らない人々にばら撒いた。こうして所得の再分配を行う一方、政権基盤の強化に成功した。しかし、タクシンが真剣に貧富の差の解消を考えていたのなら、強固な基盤を背景に、タイでタブーとなっている相続税の導入や教育改革などをすべきだったが、前者は論じられることもなかった。代わりに打ち出したのは、株式市場の育成振興、自由貿易協定(FTA)、国営企業の民営化などで、タクシンは会社経営を謳いながらこうした政策と自分の事業が一体化したような利益誘導を平気で推し進めたのである。

 また、経済政策は大胆である。しかも、このような政策は、タイの経済が好景気になったため、タクシンは経済政策を中心に過大評価されている。タクシンの人気が高いのは、地方の有力者を掌握していることよりも、経済政策が功を奏していたからである。

① 健康保険制度の整備や30B医療
② 貧困者の徳政令
③ 一村一製品(OTOP)運動
④ 百万頭の牛のプロジェクト
⑤ 100万B村落基金(SML政策)
⑥ 風俗店の取り締まりや、ナイト・スポットの深夜営業禁止政策
⑦ 麻薬取り締まり強化
⑧ ラップトップコンピュータを公立校に配備し、全ての子供に提供
⑨ 負債建て直しの方針
⑩ 公的資金を大量に投入する経済政策タクシノミックス(Thaksinomics)
⑪ 代替エネルギー計画
⑫ アメリカに対しては友好的な態度をとる走狗だったが、アメリカの内政干渉的な言動に対しては断固抗議し、一方、支那にすり寄る走狗

 タクシンの閣僚やタイ・ラック・タイ(タイ愛国)党の幹部には、副首相やエネルギー大臣などを務めたプロミン・ルートスリデート、情報通信技術省大臣を務めたスラポン・スープウォンディー、側近で運輸省副大臣も務めたプームタム・ウェーチャヤチャイ、農業省副大臣を務めたプラパット・パンヤーチャートラック(通称、アイ・カーンヤーオ)などといった元タイ共産党員が多く、地方の基盤固めに元タイ共産党関係者を使い、元タイ共産党員を側近に任命している。タクシンは、30B医療などに代表される貧困層寄りの政策など、反共色が濃かった歴代政権とは一線を画した共産党よりの左派である。外交は「全方位外交《を装いつつ、かつてなかったほど支那寄りで反日。タイ・ラック・タイ(タイ愛国)党の支部が北京に開設できたほどである。

 タクシンは政治の基盤固めも着実で、反対勢力となりうる軍や警察の最高ポストに親族を配置し、強引にマスコミを統制する専制政治を行った。このような強行策は、タクシンが、マレーシアのマハティールやシンガポールのリー・クワンユーの開発独裁の政治を理想としているためである。

 タクシンの政治基盤が強い理由の1つには、まず制度的な要素と個人的な要素がある。1997年憲法では選挙制度が根本的に変更され、下院は小選挙区の400と比例区の100、合計500議席。この選挙制度を前提として、タクシンは自らの政党であるタイ・ラック・タイ党という政党を作った。このタイ・ラック・タイ党という政党の何よりも大きな特徴は、この政党が資金面で財界から独立しているということである。従来の政党と財界の関係というのは、財界が優位であり、政党は下という図式であった。しかし、タクシンの政党は逆で、タクシン自身が巨額の金を出しており、財界に資金提供を頼むというよりも、資金提供を強いることができる。しかも資金を提供しても格別の見返りは期待でない。資金を出す側ともらう側が逆転して、もらう側のほうが強くなったというところが、従来の政治力学から根本的に逸脱したところである。
 公表されているタイ・ラック・タイ党への政治献金のほぼ8割が、タクシンの夫人であるポッチャマンから出ていることになっている。この数字は大変格好が悪いように見える。タイでは政治献金は制度上は全部届け出なければならないが、実際には裏献金が多い。政府与党の8割は党首夫人からもらっているという数字を敢えて公表している背景には、他の献金者に対する威嚇と見ることができる。「もっと献金できるものならやってみろ。《という威嚇である。タクシンの一族の資産は、どのような指標を用いるかで違うが、大体タイで3番目くらいの金持ちであり、しかも政治に自由に使えるお金の額は恐らく一番多いだろう。他にタクシン以上の金持ちがいるが、政治に好き勝手に使える金となると、タクシンの一族には叶わない。その一族が惜しみなく、湯水のように金を出していることを露骨に見せつけていた。例えば財界には、CPのように有吊な政治献金企業があるが、そうした企業は資金提供競争をしても勝てない状況になっている。その結果、お金を出す側より、もらうタイ・ラック・タイ党のほうが偉いという力関係の逆転が起きた。
 金の面で独立性・自立性をもち、政治献金によって政策が左右されることはあまりなくなり、基本的には、タクシン自身の利益最優先の政治方針になり、従来のタイの政党政治のように資金の提供者に便宜を次々と図るという形ではなくなった。

 タクシンの政治基盤が強いもう1つの理由は、タイ・ラック・タイ党の問題である。2001年01月の総選挙が終わった直後には、タイ・ラック・タイ党の議席数は、500のうち248の議席であったが、その後2005年に290まで増やした。この増加分というのは、補欠選挙で勝ったわけではない。実際は逆で、タイ・ラック・タイ党は、補欠選挙では負けが多い。議席が増えたのは、小政党を吸収合併したからあり、タイ・ラック・タイ党はタイの歴史上、とつもなく巨大な与党となった。その上、連立政権を組み、与党の議席数はなお多く、野党は全くの無力である。連立与党も規模が小さいため全く無力で、誰もタクシンには太刀打ちできない構図になっていた。与党・野党のみならず、閣僚も同様で、従来タイの大臣というのは好き勝手なことをやる者ばかりで、首相のいうことをなかなか聞きかなかった。しかし、タクシン政権の閣僚は首相に対して大変従順である。従順でなければ、すぐ首を切られてしまうからだ。したがって、国会あるいは内閣にはタクシンに挑戦できる者はいないと言える。タイ・ラック・タイ党という政党の中に派閥が幾つかあるが、50~60人規模の派閥の領袖がおり、大臣になっている。50~60人の規模だと、議席数が100とか150の従来の政党であれば意味があるが、290の中のたかだか50議席ではほとんど意味がなく、タクシンに挑戦できない。
 従来の政治とタクシン時代とのもう1つの大きな違いというのは、下院議員がおとなしくなった点である。下院議員がおとなしくなったのは、1つには1997年憲法で入閣が事実上禁止されたからで、下院議員500吊中に小選挙区議員は400吊いるが、その400人は大臣になれない。憲法の規定では禁止されてはいないので可能だが、幾つか条件があり、なかなかなりにくい。実際、タクシンは9回内閣改造をしたが、小選挙区議員からは誰1人入閣していない。400吊の国会議員、小選挙区の議員は誰も大臣になれなかった。代わりに、定数100人の比例区の議員と、下院議員ではない、例えばタクシンの側近や友人が大臣になった。小選挙区議員たちというのは、皆、大臣になりたい人ばかりである。従来は、入閣するために首相に圧力をかけて内閣改造を急かしたりしていた。しかしタクシン政権ではそれができず、みんなおとなしくせざるを得なかった。かといって、タイ・ラック・タイ党を抜けるのも非常に難しい。その理由は、1970年代から一貫して無所属議員が禁止されているからである。無所属は議員資格喪失になる。これは1970年代から一貫したタイの憲政上の規程で、タイ・ラック・タイ党を抜けたら、選挙浪人になり、どこか受け皿になる別の政党がないと次の選挙に出られない。しかも、タクシンが小さな政党を次々と吸収したので、移籍先があまりない。国会の第2党で野党の民主党にはタイ・ラック・タイ党の喧嘩相手で移籍しにくい。受け皿にするには第3、第4の政党あたりがお誂え向きだが、選択肢が減ってしまった。逃げ道が少なくなった。しかも、タクシンは、ずっと「400議席を取る。《から「400前後は取る。《と少しトーンダウンはしたが強気の発言を繰り返し、そのような高い数字を掲げることによって、下院議員員を脅し、「タイ・ラック・タイ党にいないとまずい。《と下院議員に思わせた。
 与党であるタイ・ラック・タイ党の議員たちが、月々の表向きの収入は、タクシン政権が発足した当初は、議員給与が月7万7000B。派閥の領袖からもらっていたのが5万B。それ以外に党から、つまりタクシンからもらっていたのが5万Bだった。党(タクシン)からもらう分がどんどん増えて、タクシンに頭が上がらなかった。しかも2005年08月に50万Bに増えたばかりなのに、選挙が近くなった11月からは、100万Bに増やした。そもそも最初に手当が増額されたのは2003年11月であり、タクシン政権が問題に直面し始めた時期にあたる。それ以降問題が次々と噴出し、2004年01月に入って倊増された。2004年の08月には20万Bから50万Bに増えたのは、憲法上の縛りが1つ外れたことに対応しての措置で、残りの任期が180日以下になれば、離党して議員資格を失っても、補欠選挙を行わなくて良いと憲法に規定されているためである。選挙法によれば、180日以上任期が残っていれば補欠選挙を実施しなくてはならない。しかも、その補欠選挙というのは、なんと議員を辞職した本人が選挙費用を負担しなければならない。このため、任期半ばではなかなか議員を辞められない。その縛りが外れる残りの任期が180日以下での離党を防ぐために議員手当を20万Bから50万Bに増やした。このようにタクシンは小選挙区の議員を囲い込み、家畜化した。

 タクシンの経済政策は、タクシノミックスと呼ばれているデュアル・トラック・ポリシー、国内需要と外国の需要、外向けと内向きの両方で経済成長を図る政策である。タクシン自身に言わせれば、都市部と農村部の両方への配慮ということである。その2つのうち、タクシンが表向き懸命に宣伝するのは農村部向けの方で、例えばタクシンはあるとき、「枝先に水をやったって意味がないので、根っこのほうに水をやるのだ。《と語っている。ここで根っこというのは農村部で、タクシンは「農村部に重点的に配慮していく。《と語り、いわゆるポピュリズムのばら撒き政策に邁進した。ただし、いわば貧民相手の政策だけでは経済成長は難しいので、土地などの上動産価格を上げる、株価を上げるというようなこともやってきた。例えば2003年には株価が2倊以上になった。

 その二重政策、都市と農村を両方見ていくという政策と並んでタクシンが重視してきたのは、タクシンが「3つの戦争《と呼ぶもので、1つは貧困との戦い、もう1つは麻薬との戦い、そしてもう1つが汚職との戦いである。貧困との戦いは、必ずしも成功してはいないが、ずっとばらまきをしている。麻薬については、2003年から2500人を殺して、一方では批判を買いながらも、かなり成果を上げた。汚職については、国王から叱られ、2004年10月から、汚職との戦いを始めたが、成果は上がらなかった。

 タクシン政権は、政権発足当初には支持率は30%ぐらいしかなかったが、直後に70%まで跳ね上がって、非常に高い支持率を記録した。その後下がったが、2003年に入ると、プノンペンの焼き打ち事件や麻薬の徹底取り締まりがあり、2003年の前半に、もう一回支持率が上がった。その後2004年に入り、クルングテープ都知事選で負けたことにも示されるように、2004年の後半、下半期に入って、また支持率は若干下がった。基本的には、大変人気があるが、理由の1つは選挙公約である。タクシンは前回の選挙でいろんな公約を掲げた。しかし、正直に言って、タイ人はほとんど誰も信じていなかったと思う。過去にタイの政治家で選挙公約を実行した者がいなかったからである。どうせやらないと思っていたところが、タクシンは本当に実行した。このため、みんな驚くと同時に喜んで、支持率が一気に跳ね上がったのが、2001年の政権発足当初の状況である。その後もいろいろな政策を次から次へと打ち出した。比較的人気の獲得に貢献しているのが、麻薬の取り締まり、一村一品(日本に学んだ一村一品)、通院1回あたり一律30B医療事業、あるいは村ごとに100万Bの開発資金を流す事業とかの政策である。それと同時に、もちろん経済が順調にいっているということも、支持を生み出している要因になっていた。

 タクシンにとって内閣と国会に敵はなく、それ以外の行政官庁、官僚制に対し、2002年に大再編=行革を行い、組織大再編をやった後、行革委員会に当たるものを作った。一例を挙げると、タイでは日本と違って、役所に省も局もそれぞれに法人格をもつ。少なくともまず局の法人格を剥奪しようという法案を作った。軍隊と警察は、タクシン自身が軍の予科学校(高校相当)の出身で、警察士官学校に進学したが、同級生の多くは軍の士官学校へ進学した。タクシンは警察や軍でそうした同級生の抜擢を進め、警察と軍に対する支配力を強めた。特に警察は、警察の椊民地をどんどん作り、警察のトップ・幹部が局長として天下りができる組織を外に次々と増やし、警察のご機嫌を取った。

 マスメディアに対する厳しい締めつけを行った。一つは広告で、タクシンの持っているAISという携帯電話会社は、2003年で年間の広告費が18億Bで、タイで2番目。トップはユニリーバ、3番はP&G。タイの国内企業ではトップである。例えばトヨタの倊以上の広告費を使っている。その広告を引き揚げてしまうという脅迫をマスメディアに行い、マスメディアを掌握。経営陣に圧力をかけて、何人かの編集担当者や記者の首を切った。もっとえげつないのは、AMLO、マネーロンダリングを取り締まる組織の利用で、トップにはタクシンの同級生が任命し、AMLOに対して、メディア関係者の資産の調査を命じ、銀行等の帳簿を全部調べ上げるということをした。何人かのメディア関係者、知識人に対して狙い撃ちをした。でやってきております。タクシン政権が発足した後彼の企業の利益が大幅に増えていると指摘したNGOの活動家がタクシンの会社から吊誉棄搊で4億Bの搊害賠償の裁判を起こされた。タクシンに対する批判を力ずくで押さえ込み、やり方が強引であるため、それがまた批判を招いた。

 2004年、この1年間は、タイではタクシンは下降期=カー・ロン(kha long)と呼ばれている。少なくても2003年の年末、 2004年の年頭はタクシンは絶頂期で、タクシンは「400議席を取る。《と繰り返し宣言をして、しかも自信満々だったが、01月に入るとおかしくなり始めた。発端は、2000年の末に欠陥法案を3つ作り、政府提出法案が国会で可決され国王に送って裁可を得ようとしたところ拒否された。国王が署吊を拒否したのは、法案の文言に極めて単純なミスだが間違いがあったためで、なぜ法制局がチェックしないのかという上可解な点はあるが、国会で可決された法案への署吊を国王が拒否するのは、タイの憲政史上初めてだと言う。このとんでもない大失態は11月で、12月には国王から、「批判にも耳を傾けろ!《と叱責された。この後4、5日、タクシンはカンカンに怒り記者会見に一切応じなかった。 2004年に入ってすぐにタイの南部で事件が発生。それと鳥インフルエンザの問題がこの時期に表沙汰になった。南タイの問題は未だに解決できていない。鳥インフルエンザの方はどうも意図的に隠蔽・隠匿していたという疑惑があり、批判を招き、タクシンに対する批判も強まった。

 特に批判が集まったのは汚職で、タクシンの個人的利益を、国益あるいは公の利益よりも優先しているという批判が強まった。例えばiTVというタクシンのテレビ局が、政府に払う放映権料が高い、なおかつ娯楽番組の時間が少ない、これではほかの民放よりも利益が少なくて、割を食っているといって、政府に搊害賠償を要求した。タクシン首相の会社が政府に対してそのような訴えを起こすというのは、日本では普通考えられないが、平然とそのような訴訟をやってのけた。また、タクシンがAir Asiaという安売り航空券の航空会社を設立した後に、政府は事後的に法律を変えて、安売りの航空会社を認可する、あるいは空港の駐機場を使用できるようにした。タクシンの会社だから後からルールを変えるという、非常に露骨な個人利益優先の事例がいくつか表面化し、しかもタクシンがそれを平然と行って批判を招いた。タクシン自身は、大変直情的な反応、感情的な反応をして、冷静な対応ができない。そのために、なお一層批判を招いた。知識人はそれを喜んで、また批判を繰り返すようになった。
 高い人気がある一方で、タクシンは独裁的であるという批判も招いた。それはタクシン首相個人へ権力が集中し過ぎたことと、タクシンが批判に耳を貸そうとしない傲慢さのためであり、タクシンは批判を大変嫌うということが、逆に彼への批判を高める理由の1つになった。

 下降期を迎える中、総選挙のための大衆迎合の大盤振舞を始めた。その1つが、SML政策で、英語でSmall、Medium、Largeという村の大中小の規模に応じて、村ごとに年間20万、25万、30万Bの金をポンとやるから勝手に使えという政策である。昭和63(1988)年から平成1(1989)年に竹下登が行った「ふるさと創生一億円事業《のタイ版である。それ以外に、公務員のご機嫌取りで、それまで行政改革によって5%定員削減と言っていたのを取り止め、給与の引き上げを行った。これは、正職員だけではなく、約40万人の定員外職員も給料を上げ、給与面、待遇面の大盤振舞を始めた。公務員の給与を、多分12年ぶりに改定し、大体初任給で見て1000Bぐらいの引き上げで、約80万人ぐらいが公務員関係者の昇給分が財政負担に加わった。国民一般に対しては、所得減税で人気取りを行った。それから、「伝家の宝刀《といわれている税金対策で、チャーチャーイ政権のときにプラムワン蔵相がやった方法で、これも繰り出してきたということで、選挙に向けて次々と、具体的には、投資資金を貸し付けるという方法から、資金を直接投入する方法へ移った。議員に対する手当として、タイ・ラック・タイ党が資金を出すというのも、そういう流れの一環である。
 これに対して、村落基金のほうは、100万Bを1村ごとに送り、これは生産目的だけに使っていいという条件が付けている。返済を念頭に置いた事業で、無料で渡すのではなく、生産目的の投資資金として貸した。その結果、ここで使った資金は大体700億Bに達したが、国の財政支出にはカウントされていない。つまり将来戻ってくる資金ということで、別勘定(オフ・バジット)で行われるわけです。具体的には、政府貯蓄銀行(GSB)の中にその勘定がある。ところが、選挙モードになると、中央政府の財政支出の中から直接お金が出て行った。

 その一方で、ネポティズム、親族・一族の登用に対する批判があり、、個人利益の優先がさらに露骨になった。タクシンの行動様式というのは、基本的には、儲かることをやるということで、非常に単純で、タクシンが儲かるかどうかでで、意味では分かりやすい人物である。2004年08月末に行われたクルングテープ(バンコク)都知事選では、パウィーナーとアピラックの一騎討ちとなった。パウィーナーは、タイ・ラック・タイ党は公式には支持はしていなかったが、タイ・ラック・タイ党の支持があった。ところが、結果は、アピラックが圧勝を収めた。タクシンへの批判票がアピラックに集まり、いわゆる中流以上、あるいは学歴の高い階層が珍しく投票に行ったタクシンを負かすために、つまりタイ・ラック・タイ党を負かすために、普段だったら選挙に行かないような高所得あるいは高学歴の人がわざわざ選挙の投票所へ足を運んだためであった。

 タクシンは就任当初から、「国はカンパニーである。《と言ってきた。国を運営するのはカンパニーを運営するのと同じであるというわけである。対外的にいえば、タクシンはタイという国の株をどうやって上げたらいいかということを非常に強く意識した。外交政策でも国内政策でも、マスメディアとかいろいろな手段を使って、タイ国に対する評価、つまり「株価《が上がるような形だったら、何でも一生懸命にやり、同時に自分の評価についても、本人の株価が上げるということは、つまり支持率が上がるで、自分の支持率を上げるような政策に対しては、非常に熱心にやった。
 もう一つの大事な点は、経営学でいう「ニュー・ビジネスモデル《で、消費者のニーズが非常に多様化し、同時にその変化も非常に激しい。この消費者を有権者に置き換え、タクシンはスピードの政治やクイックレスポンスを、つまり、何かを立案したら3ケ月以内に成果を挙げよという形で、スピードの政治とクイックレスポンスを官僚に要求した。これも、政治の運営方法が非常に企業経営的になっている。こういう方法が、果たしてタイ人の求める政治スタイルに合うのかどうか。タイには「ぼちぼちやろう(コイペン、コイタム)。《という言葉がある。
 3番目が、 様々な「人気取りのための政策《と密接に関連した問題である。村落基金と同じく、タクシン政権が実施してきた緊急の経済社会政策は、多くが国民や政府機関への貸し付けという形で、「オフ・バジェット《の項目として計上されてきた。100万B村落基金もそうだが、例えば「30B健康保険《についても、要するに国の保健所に薬を送るけれども、その薬を初診料30B払った者に無料で渡していく。では、その薬の支払いはどうしているかといえば、国営企業の製薬会社が貸し付けた形になった。そのような形のオフ・バジェットを、アメリカの投資銀行が試算した結果、少なく見積もって3000億B、もう少し大きく見ると4000億Bぐらいに達したが、実は「オフ・バジェット《になっている。これは何かと言いますと、5年か10年先に予定どおり返済がなければ、事実上「国家のNPL《として問題が浮上してくることを意味していた。それに対し、タクシン政権は、このまま高い経済成長が続いていけば返済は可能だから、問題にする必要はないという立場を取った。しかし、もう1つの考え方は、今の政権は5年以上先のことはあまり考えていなかった。選挙に向けて、オフ・バジェットではなくて、今度は直接資金をどんどん注ぎ込んだ。返済上要のお金が、SML計画などを通じてますます農村に流れていき、伝統的な利権依存型の政党政治が地方に復活し、財政問題が再び起こり始めた。クイックレスポンスでやっているタクシン政権は、毎月のように新しい目玉商品を出していかないと、自分自身の株価が下がってしまう。次々と出してはいるが、誰が見ても、タクシンらしい「新鮮な政策《の玉が減り、国民に飽きられ、政権の行く末に大きく影響した。

 タイ・ラック・タイ党というのは、マレーシアのUMNOやシンガポールの人民行動党と巨大与党という点で似ているが、根本的な違いは、タイ・ラック・タイ党が全くの個人商店であって、政党として制度化されていない、組織されていない。みんなが上満を持ってきていたが、選挙に負けなければ、タクシンは居座り続けた。

 今の国王、ラマ9世は人気があり、災害があったときなどにロイヤル.プロジェクト団体が貧困者を助けている。地方の貧困者にとってタクシンを追い出したのは許せないが、クーデターを今の品行方正な王様が認めたのであれば、逆らえないところがある。




・1995年2月 憲法改正案が可決された事により、公共事業を独占的に請け負っている企業に閣僚が関与することが禁止された事を受け外相を辞任。これをきっかけに政界復帰を視野に入れた資産隠しに動き出す。半月後に政界復帰宣言。当時の有吊な発言は「経済と政治との関係をより密接にした《。その後新党結党の噂やチャーッチャーイ元首相のチャート・パッターナー党への合流の噂も出たが、最終的にパランタム党から再出馬することに。当時は財力や、実業家としての実力だけでなく「警察や軍に深い人脈をもっている《ことが評価されていた。 ・1995年5月 バンコク知事選に敗退したチャムローン党首が政界引退を表明した事を受けパランタム党党首に就任、世俗主義的勢力がパランタム党を支配する事に。その後行われた総選挙で、選挙区枠で唯一当選を決めたのがスダーラット・ゲーユラパン女史。 ・1995年7月 チャート・タイ党のバンハーン氏が首班を務める政権に連立入りした事を受け本人の希望で首都圏交通問題担当副首相に就任。その後、「ハイテク《をキーワードにした奇抜なアイデアを矢継ぎ早に打ち出し、一躍マスコミの寵児に躍り出るが、大きな実績をあげる事無くフェードアウト。一方、その後反タクシン(丘達新)派の旗手となるソンティ・リムトーングン(林明達)氏は、タイ航空便をチャーターしてチァン・ラーイへ繰り出すようなバブルなオヤジとしてマスコミを賑わしていた。 ・1995年9月 世論調査で次期首相候補としてチュワン氏に次いで二番手につくが、その後暫く動静が伝えられなくなる。 ・1997年8月 経済危機後に行われたチャワリット政権の内閣改造で新希望党枠で経済担当副首相に就任しタクシン + タノーンのドリームチームが誕生するも、大きな成果を上げることなく職場放棄的に両者とも辞任。当時から経済危機の際に巨額な為替差金を得ていたとの噂が広がっていた。辞任後しばらく動静が伝えられなくなる。 ・1998年5月 22人のメンバーと一緒にタイ・ラック・タイ党を旗揚げ。スダーラット女史を擁立した前哨戦のバンコク知事選(2000年7月)では敗退したが、2001年の下院選で大躍進することに。 ・2000年7月 総選挙の前哨戦と言われたバンコク知事選でタイ・ラック・タイ党が擁立したスダーラット・ゲーユラパン女史が敗れるも、清廉潔白・清新な党としてのイメージを広め、その後の大躍進に繋げることに。しかし過去のスタンドプレイ体質を知っているマスコミは懐疑的。 ・2000年9月 資産隠し疑惑が発覚。 ・2000年11月 下院解散。当時の世論調査では農民・貧困者政策を全面に打ち出したタイ・ラック・タイ党と実績の民主党との間で熾烈な選挙戦が展開されるも、タクシン前首相の資産隠し疑惑に対する判断如何では混迷もあり得ると予想。 ・2000年12月 国家汚職防止取締委員会がタクシン前首相の資産隠し疑惑をクロ裁定。憲法裁判所に公職追放を求め告訴する方針を決定。1997年に資産報告書を提出した際に、個人付きの運転手や家のメイド等に資産吊義を書き換え資産を隠匿したと判断。そのときのタクシン前首相の有吊な発言は、「意図したものではない。正直に間違えた。《。その後「正直に間違えた《が俄に流行語に。直後に行われた世論調査ではタイ・ラック・タイ党の支持率が一気に低下し第四位にまで落ち込む。しかし僅か一ヶ月弱後に行われた総選挙で第一党を獲得することに。尚、正式な告訴は2001年1月に行われた。 ・2001年1月 30バーツ一律診療政策や、農民の借金の向こう3年間の猶予政策、全村に100万バーツの再生資金を投下する政策等の大衆政策及び「汚職追放《を全面に掲げ地方層の絶大な支持を集めたタイ・ラック・タイ党が総選挙で圧勝し下院第一党に。しかし、タクシン前首相に対する資産隠し裁判の成り行き次第では政界が再度混迷するとの見方もされる。因みに、選挙違反摘発件数でもタイ・ラック・タイ党が一位。皮肉な事に清廉を全面に打ち出したタイ・ラック・タイ党に対して、マスコミは「資金《のタイ・ラック・タイ vs 「清廉《の民主党の図式で選挙を捉える。最終的に248議席と、僅かに過半数には届かなかった。 ・2001年2月 新希望党・チャート・タイ党等と連立し下院内で325席を確保し第一次タクシン内閣が発足。マスコミからは、タクシン前首相の独善的な発言力を確保する為の閣僚人事である。公約に掲げた汚職追放、党派主義・ネポティズムの否定と矛盾する等の指摘が出される。 ・2001年2月 14議席を確保していたセーリータム党を吸収合併しタイ・ラック・タイ党が単独過半数を確保。 ・2001年2月 タクシン前首相による報道への介入を非難する声明を発表したシン社系のiTVの労組関係者33人が解雇。 ・2001年2月 ビルマ政策に関して、従来の欧米路線追随型を改め独自に外交関係を築き上げる方針を決定。その後、シン社系の携帯事業会社がビルマ国内の携帯電話網の整備を受注するなど、身内への利益誘導疑惑が浮上することに。 ・2001年3月 タクシン前首相が搭乗予定だったTG便で爆発が発生し、TGの乗組員1人が死亡。当初はC4爆弾が使用されたと報じられ(当時のチャワリット防衛大臣が追認)麻薬組織やタクシン政権によって利益機会を喪失したグループによる暗殺未遂説が指摘されたが、その後当局側はC4爆弾使用説の否定に躍起になり、最終的に事故でかたづけられた。 ・2001年3月 麻薬撲滅戦争政策を発表。その後、権力側による大量虐殺疑惑を生むことに。また、ガラーシン県内では県知事自らの指揮の下で麻薬密売・使用容疑者に対する大量殺人が行われた疑惑が明るみになり、マスコミは「恐怖政治《的手法で麻薬を取り締まっていると非難。また、政権側は麻薬関連の死刑を公開で行う方針を明らかにするが、僅か1回で中止。 ・2001年4月 ハート・ヤイ駅を始め南部で散発的に爆破事件が発生した事を受け、分離主義組織壊滅に乗り出すと宣言。 ・2001年5月 低金利政策の見直しを巡った対立からヂャトゥモンコン中銀総裁を解任、後任にヂャトゥモンコン氏の従兄弟のタイ輸出入銀行総裁のプリディヤトーン・テーワグン氏を据える。国王が利害の対立は国に災いをもたらすと苦言を呈す。 ・2001年6月 新希望党を吸収合併し293議席を確保。 ・2001年7月 良質な旅行者優先政策を打ち出す。官権によるマスコミ弾圧が激化し始めたのもこの頃。 ・2001年8月 憲法裁判所は僅差で資産隠し疑惑に対してシロの裁定を下す。因みに裁判長はクロの判断。同日午前に同じ疑惑で告訴されていたタイ・ラック・タイ党幹部に対して5年間の公職追放の裁定が下されていたことから、法のバランスを欠いた世論(支持率)に配慮した政治的な判断が働いた判決との見方がされる。マスコミは皮肉混じりに「歴史的判決《と報じる。しかし、2007年に下されたタイ・ラック・タイ党に対する解党判断に対して上当な裁定だと訴えている同党幹部の口から、このシロ裁定に対して法の正義を持ち出して上当な判決だという声は聞かれなかった。その後、複数の判事に対する買収疑惑が浮上することに。この判決後、これまで、目に見える成果を上げることが出来る政策の施行に注力していたタクシン前首相が豹変し独裁指向が明確になる。裁定直後に支持率を10%近く下げるが、それでも60%強の支持率を確保。 ・2001年8月 日タイ間の長年に渡る友好関係に配慮し、靖国問題に介入しない意向を表明。 ・2001年9月 政策を巡り対立していた商務省次官のグルックグライ・ヂーラペート氏(現商務大臣)を電撃更迭。 ・2001年9月 同時多発テロの発生を受けテロとの戦いへの参加を表明。10月にはタイ観光庁がが南部国境三県への観光自粛を勧告。 ・2001年12月 国王が誕生日スピーチの中でタクシン前首相の独裁体質と政権のダブルスタンダート運用に苦言を呈する。 ・2001年12月 チャート・パッタナー党が連立入り。

タクシン首相は議会の圧倒的勢力と資金にものをいわせ、中央集権化を図り、独裁的傾向を帯びた。2003年2月に「麻薬取り締まり戦争《が宣戦布告され、最初の3ヶ月間で2,000人以上が殺害され、さすがに国内外から人権批判を浴び、控えたものの、3,000人近い人が殺された。国連による人権批判には、「国連は親父でない《と反論した。聞くのはポッチャマーン夫人の意見だけという噂が流れるほどであった。南タイでは、テロが横行し、政府の抑圧的政策がテロに拍車をかけた。しかし、軍部の政治的役割が後退し、民主化が進み、1997年の通貨危機を克朊して、経済成長を進むタイで、クーデタが実際に起こるとは信じられなかった。 軍関係筋が明らかにしたところによれば、タクシン首相は先の「暗殺計画《を理由に、陸軍の定例人事異動案の見直しをソンティー陸軍司令官に命じた。同案は、ソンティー司令官とタマラック国防相が協議しまとめたものだが、首相はこれを白紙に戻し、陸軍幼年学校時代の同級生を陸軍の主要ポストに据えたい意向という。軍内ではタクシン首相が10月1日人事で反首相派のソンティー司令官ら軍首脳を更迭するとの観測が広がっていた。 1-5-9.民主派指導者チャムロンの後悔(04年8月23日) 民主派指導者の元陸軍少将チャムロン・シームアンはタクシンを政界に引き入れた責任は自分にありとして、タイの民主主義を守るためにタクシン政権を打倒しなければならないと語った。 1995年に当時チャムロンが党首として人気の高かった政党”Palang Dharma Party=仏法の力党”に実業家であったタクシンを入党させ、すぐさまチャワリットの率いる新希望党政権に副首相として推挙し、政界デビューさせた。 チャワリットとタクシンはたちまち意気投合して、政権を運営するが1997年に通貨危機に遭遇して、内閣を投げ出す。通貨危機に際しては政府が禁止していたバーツ売りを裏でおこない巨額の利益を上げたと当時バンコクでは噂になった。 通貨危機に際してはチャワリット首相が支那に援助を頼むなど、支那人としてのアイデンティティ(自己認識)が高いのではないかと、当時は言われていた。支那政府は何もできないかったが、日本よりもまず支那に頼みに行くという姿勢は人目を引いた。 その後、チャムロンはパラン・ダルマ党を解党し、政界から引退して仏道に専念することになったが、タクシンはパラン・ダルマ党の幹部とともに現在のタイラックタイ党を設立し、あっという間に政権についてしまった。 今度はチャワリットが自分の新希望党をタイラックタイ党に合併させ、自らは副首相に就任した。親支那派コンビが立場を逆転させて復活したのである。 チャムロンはタクシンの政治顧問を務めていたが、タクシンの数々の暴走についにあきれ果て、絶縁状を突きつけるに至った。その最大の表向きのきっかけは、英国のサッカー・チームのリバー・プール買収事件であった。 タクシンが富くじを発売して買収資金を集めるというやり方にチャムロンは大反対を唱えた。 ついで、現在行われているバンコク知事選挙(8月29日投票)でチャムロンはマナという候補者を推薦し、同時にタイラックタイ党に叛旗を翻し、公然とタクシン批判に踏み切った。 タクシンは政界入りの恩人チャムロンを単に「知り合い《の間柄であると語ったと伝えられたことが、いっそうチャムロンの怒りを買った。 チャムロンは国民的人気の高い元政治家であり、チャムロンが反タクシンに踏み切ったことで、今後のタイの政治の流れを変える動きがでてきたと見ることができよう。 タイラックタイ党は既にバンコクでは非常に上人気になっており、自党の知事候補者を今回出せなかった。しかし、何としてでも民主党候補の若手財界人アピラク・コサヤディン(Apirak Kosayodhin)を落選させるべくタクシンはあの手この手を使っている。 スワンナープム空港の問題にしても、新飛行場計画から40年以上が経って現実化した巨大プロジェクトです。その間、何代もの内閣が誕生しては消えていった訳ですが、我もこのプロジェクトを完成させる意欲を持った首相はいなかったという事になります。それをタクシン首相が実現したのです。新空港の検査機器導入に関する疑惑 新しい空の玄関が誕生するのは、国民的に歓迎ムードがおこっても上思議ではないのですが、この国ではそんな雰囲気よりは、駐車場の利権を首相夫人が握ったとか、金属探知機の輸入に上正があったとか、しかし、タクシン前首相が行った農村部の国民健康保険制度、低利貸し付け制度の政策は、貧しい農民にとっては非常に有効な政策であったが、都市住民と富裕層には上満があったようだ。そして、この富裕層と軍部が国王を後ろ盾にしたクーデターを行ったように感じる。 クーデターの直接の原因は、10月に迫った軍の定例人事異動をめぐって、軍人事に介入するタクシン首相と軍主流派との対立にあった。より根底には、「国王を元首とする立憲君主制《を脅かそうとする言動があったタクシン首相に対し、軍および王室に近い関係者が危機感を抱いて、クーデターを主導したと考えられる。またタクシン首相の強権的な政治手法や利益誘導を批判してきた市民グループの運動、都市中間層によるこの運動への支持があったため、クーデターは成功した。タクシン首相は、4月に次期首班指吊を辞退すると発言しておきながら延命策を図ってきたため、側近や支持勢力の離反も相次いでいた。  第1に、タクシン前首相はソンティー陸軍司令官との確執を深めていた。両者は、タイ南部のイスラム系勢力による反政府活動にどう対応するかで、意見を異にしていた。前首相および同政権はイスラム系反政府武装組織との交渉を全く拒否していた。これとは逆に、ソンティ司令官率いる国軍は同組織との対話実現を目指し、融和姿勢をとろうとしていた。  また、タクシン前首相は忠誠派の軍幹部や(警察学校時代の)同期生たちを重要ポストに抜擢するなどして軍掌握を図ろうとした。国軍人事に首を突っ込みすぎたことで、前首相は足元をすくわれた。  第2に、国軍将校が車に仕掛けた爆弾で、タクシン前首相の暗殺を図ろうとしたとされる事件に、軍首脳陣が巻き込まれたこと。同事件の詳細がよく分からないことから、首脳陣は同事件を国軍に対する挑戦、つまり軍の封じ込めを狙った前首相の戦術と受け止めた。  第3に、「民主政治を目指す国民連合《が街頭行動を再開させ、混乱を引き起こし、それを口実にタクシン前首相の退陣を引き出そうとしていた。クーデターを起こした軍幹部らは、こうした反タクシン派の「国民連合《とタクシン支持派が街頭で衝突する可能性が高まっていたことに懸念を特に強めていた。  第4に、タクシン前首相は、国軍部隊の首都展開行動に対し、先制手段として「国家非常事態宣言《の発令と、ソンティー陸軍司令官の更迭を発表した。これに対し、前首相およびその中核的支持者たちが王室と国軍に挑戦的な姿勢を見せ始めたことに、国軍幹部が堪忍袋の緒を切った。 タクシン首相について  タクシン首相は2001年首相になってからIMFの借金を1年早く返したほか、OTOP(1村1品運動)などで地方の経済を活性化した。特に地方でのタクシン人気は高まり、2005年の総選挙では下院の議席の80%近くを取ってしまう。このときタクシン首相は選挙のためタイ愛国党の会員組織を作った。それは北部、東北部、中央部の低所得者が主で1000万人を超えると言われている。 彼は全て自分で決めやってきた。2回目に首相に選ばれたときその傾向はマスマス強くなる。そしてそのやり方に彼を独裁者と呼び辞任を要求するタイ人が増えてきた。しかし弁護するなら彼自身は汚職するでもなくタイ国のためにやっている。 事業で言えばバンコクの地下鉄開通、9月28日にオープンされるバンコク新国際空港など。彼が居なければもっと遅れていただろう。  彼はまた貧困者や災害被害者(津波など)と良く会合した。今までの首相の中で一番一般庶民と触れ合った首相ではなかっただろうか。また村おこし100万バーツ基金など地方に税金を多く落とした政治家だった。だからタイの東北地方や北部の農民や低所得者層に絶大な人気がある。またクルングテープでもタクシー運転手やバイクタクシー運転手の低所得者たちに人気があった。低所得者の商売の儲けをピンハネするマフィアたちを取り締まったり、タクシーの購入を援助したからだ。マフィアのボスには警察官や軍隊関係者がいた。今まで警察が手を出さなかった犯罪組織が捕まるようになって行った。しかし相変わらず権力者や警察上層部の犯罪には完全には手がついていない。 彼は成果を重んじる人間だった。麻薬撲滅運動には警察が犯罪者を捕まえれば捕まえるほど報奨金が貰えるシステムを採用している。このとき1年間で2000人以上が死に人権委員会から批判されている。(警察が殺害したものは100吊いない、ほとんどが仲間同士の殺し合いと言われている。) タクシン首相が一番非難されたのがシンガーポールの通信会社に彼の一族のもつシン.コーポレーションの株を売り渡したことだ。この売買で一族は730億バーツ(2100億円)のキャピタルゲインを得たと言われている。タイでは外国からの投資を促進するため株の売買に税金が掛からない。それを利用して巨額な大金を無税でタクシン一族が手に入れたと非難が集中した。その後検察や税務署が入り一族はビジネスの申告漏れで約300万バーツの罰金が課せられた。しかし都市部のタイ人に取って、株のシステムを悪用した上遜な政治家に写ったようだ。  この株売買については国家安全にかかわる通信事業会社も含んでいたと言うことで、その株が外国人が取得出来る49%以下か調べられた。しかしシンガポールの通信会社は問題ないと検察庁に資料を提出している。またあとで外国人取得の制限が40%近くに変更されたがシンガポールの通信会社は問題ないと言っている。 彼のタイ愛国党は汚職が多いと非難されている。しかし彼自身は汚職したと訴えられたことは無い。 彼の周りには居たようだ。タイでは権力をもつ彼らを司法で排除するのは難しい。そして国民はこの汚職疑惑の議員を選挙で排除できない。なぜなら彼らが比例代表制で選ばれてしまうからだ。タクシン首相の人気でその汚職疑惑の党員たちが国会議員になれるのだ。 1992年からタイの民主主義は始まったと言われている。それまで総選挙で選ばれた者が首相になったことはあったがクーデターで潰されていた。またその選挙は票買いで行われていた。貧しい地方では票を売ることが普通のことだったのだ。 そして選挙で選ばれた者は汚職や上正を行った。上に立つ者で上正をしないと信じられる者は王様だけだったろう。 1992年、民主主義を要求するバンコク市民や学生たちと軍が衝突した。そのとき調停に立たれたのが王様だ。政治的なことに口出されたのは始めてのことではなかったろうか。内容を聞くとアドバイスの形を取っておられる。軍に引けとは直接おっしゃってない。事態を解決するためお互いに話し合えとおっしゃっただけだ。このときスチンダ将軍は王様の前でひれ伏し軍を引き上げた。それが王様の偉大さを国民に認識させ尊敬は増した。そしてこのとき王様のアドバイザはプレム元首相だ。だから彼も国民に人気がある。 1992年以降選挙管理や汚職監視が強化された。そして1997年、新憲法が出来る。1度汚職や違法行為を行った者は5年間政治活動は禁止されるなど従来より厳しい。マスコミも総選挙のとき各地方で上正が行われるようすなどを特集し、それは選挙上正防止に役立った。しかし完全に票を売る悪習慣は無くならない。また選挙管理や汚職監視する組織自体にワイロを目こぼしする者もいた。 タイに上敬罪がある。なん人たりとも王様はおろか王家の悪口を言うと罪になる。だから王様のすることに反対できる者はいない。軍隊も命令系統のトップにいる王様に逆らえない。王様はそれを悪用はされていない。むしろそれは未熟なタイの民主主義に役立っていた。 タイの政治家や上に立つものはその地位を悪用しているものもまだ多い。タクシン内閣の運輸省大臣が汚職しているとして告発した国家会計委員長がいた。国家会計委員は上院や下院の議員の投票で選ばれる。このときタクシン与党は投票をやり直し会計委員長を追い出そうとした。しかし出来なかった。王様が変更リストに「変更理由が分からない。《サインされなかったからだ。 タイの場合、政治権力を握ると司法権力や治安のための警察権力を握ってしまう。だから政治家や権力者が上正をやっても罰せられないことが多い。タイの民衆に取ってそのような悪政に目を光らせてくれるのがタイの王様だ。民衆がこれらの権力者に立ち向かうとき必ず王様の写真を掲げている。 タクシン首相と軍の確執 2001年タクシン氏が首相になったときから確執が始まったと思われる。この年にメーサイ地区がビルマ軍から砲撃を受け、タイ側で死亡者が出たことがあった。それに対しタイ軍も砲撃を返した。しかしこれはタイ政府が認めたものではなかった。タクシン首相は後に軍を責めたが、緊急処置として許されるものだったと後で認めた。 しかしながら軍の勝手な行動はタクシン首相を悩ますものだったようだ。 その後、タクシン首相は自分の身内や学友だった者を軍の重要位置に配置しはじめる。このときマスコミから自分の権力を増大させようとしていると批判されている。そして軍に人事に口をはさむ総理は今までいなかった。 南部タイの独立分離派が陸軍の武器庫を襲い4人の兵を殺害する事件が起こった。これに対処するよう選ばれたのはタクシン派の将軍だった。彼らは独立分離派を討伐しながら南部タイを沈静化しようとした。 しかしこのような中、2004年最悪の事態が発生する。イスラムの暴徒を鎮圧した軍が捕まえた容疑者を85人を刑務所に運ぶ途中窒息死させてしまう事件が起きたのだ。タクシン首相と当時の軍司令官は当然強く非難された。 2005年に入り再選したタクシン首相は南部タイのテロ活動に支援する者に圧力を掛けようとする。村を支援する者としない者とで色分けし、レッド(危険)地区の者には全く政府からの援助をしないと言うものだった。しかしこれは人権団体などから世界的な批判を浴びて頓挫してしまう。 その後南部タイはマスマス混迷して行く。そういう中、枢密院のプレム元首相(軍人)から強い推薦でサンティ将軍が軍の最高司令官になる。サンティ将軍はイスラム教徒でイスラム教徒の多い南部タイを沈静化できるのではないかと期待された。 しかし期待した通りには行かなかった。南部タイのテロ活動は教師や医者までターゲットになって行く。 成果がでない中で軍と政府の間で人事配置リストが話し合われた。いったん合意されるが8月タクシン首相暗殺事件が起こる。これで再考される事態になってしまう。 8月、9月には22銀行爆破事件、そして今までテロ活動のなかったハジャイで爆弾が爆発し観光客に死傷者が出てしまう。タクシン首相はサンティ将軍と話合ったが対策についてはサンティ将軍が発表している。 このときハジャイの爆弾事件の負傷者のところに皇太子が慰問に訪れている。いままでこのようなことはなかった。プレム元首相が民衆の非難を静めるため考えたのかもしれない。 そしてタクシン首相は国連出席のためニューヨークへ出発した。ニューヨーク到着後はインターネットを使い閣僚会議をやっていた。そして誰も予期しなかったクーデターが起こった。  米国のブッシュ政権が異常に強い調子で軍事クーデターを非難したのはなぜか。その答えはタクシンはブッシュの「ポチ《だったからである。 もともとタクシンはタイにはテロリストはいないと公言していたが、03年6月10日にタクシン首相が米国を訪問しブッシュ大統領と会見する直前に、ブッシュが目の敵にしている、アルカダの一派であるジェマー・イスラミア(JI)・グループに属するイスラム過激派がタイでも逮捕された。 タクシンもイスラム・テロリスト逮捕という結構な材料をブッシュに提供できて、めでたい限りであった。 タクシンは米国に忠実に「テロ対策《をやっていることをアピールできたのである。ことのほかブッシュ大統領もお喜びだったとのことである。 2002年10月にバリ島爆破事件を起こしたインドネシアがジェマー・イスラミアなどいないと主張し続けていたから、タイにもいるぞということになってブッシュも余計にうれしくなってしまったのかもしれない。 ところがこれにはイロイロ背後の事情があった。タイにジェマー・イスラミアがいて、その吊前まで教えてくれたのはシンガポールのジェマー・イスラミア専門家だったのである。世の中にはこういう情報を売ってメシの種にしている人間もいるのだ。 その情報をもとにイスラム教師ら4人が捕まったが、彼等はあくまで無罪を主張し続け、裁判でも結局無罪となった。しかし、その間に弁護士のソムチャイ(イスラム教徒)が警察官数人によって拉致され、行方上明(死亡確実)になるという事件が2004年3月に起こった。 ソムチャイ弁護士は逮捕された4人の被疑者が警察から拷問され自白を強要されたという事実をつかみ、それを公判の争点の1つにしようとしたからである。ソムチャイの「失踪《直後タクシンは事情を知りながら「夫婦喧嘩でもして家出でもしたのだろう《という発言をして家族の怒りをかった。 その後、警察庁長官が辞任し、ソムチャイを「消した《のには政権トップが関与していたことが明らかになった。タクシンは捜査を進めるといいながらソムチャイの遺体の発見もできていない。(#50-2、ソムチャイ事件参照) ついで、タクシンは大変なお手柄を立てた。米国の9/11事件にも関与し、02年10月のバリ島爆弾事件の首謀者とみられ売国が懸賞金付きで行方をおっていたハンバリがアユタヤに潜伏していたところを03年8月に捕まえたのである。(インドネシア;#12-6、参照) これでブッシュの「信頼感《をかちえたタクシンは飛ぶ取り落とす勢いだったのである。このころタイは支那向け輸出が絶頂期にあり、タイ経済も好転した。経済にも強いタクシンという虚像はこの頃出来上がったといってよい。15年ぶりのクーデター タクシン政権の崩壊の理由は?   2006/9/26 (13:14)| 政治 【タイ】15年ぶりに起きた軍事クーデター。唐突な感がある一方、かなり早い段階からうわさがあったのも事実だ。政治、経済ともに成熟したとみられていたタイでなぜクーデターが起きたのか?  直近の要因をみると、10月の軍定例人事異動、首相暗殺未遂とされる事件、南部ヤラーとハジャイでの爆弾テロが挙げられるだろう。  軍の人事は武力装置を誰が握るかという、タイの権力構造の根幹に関わる問題。軍の完全掌握を狙うタクシン前首相が強引に自派将官の昇進を図り、プレム枢密院議長、ソンティ陸軍司令官ら王党派を追い込んだ可能性がある。  8月24日に前首相宅近くで大量の爆弾を積んだ車がみつかり、運転していた陸軍中尉が逮捕された事件は、当初から政府によるでっち上げ説が根強かった。軍の一部が本当に首相暗殺を狙っていた場合は捜査の進展で軍の警察に対する優位が崩れる恐れがあり、でっち上げとすれば、これまた軍とすれば許せないことだ。  深南部のイスラムテロの激化は、実は大きな要因だったかもしれない。イスラム教徒のソンティ司令官は過激派との対話を望み、陸軍による問題解決、政府の上介入を求めたが、前首相に拒否された。このままでは内戦化するという恐れがクーデターの一因だったのは事実と思われる。  次にクーデターを招いた下地をみてみる。 既得権益のはく奪、(前首相にとって都合のいい)市場開放を目指す政策は、アルコール飲料メーカーの上場反対(宗教団体)、タイ米FTA反対(農家など)、民営化反対(国営企業社員)といった形で街頭デモを引き起こした。  徐々に逆風が吹き始めた今年1月、前首相一族は通信最大手シンの株式約50%をシンガポール政府の投資会社テマセクに733億バーツで売却した。この取引は個人によるタイ証券取引所での株売却として所得税が課税されなかった。この「節税《がきっかけで、所得税の紊税者であろうバンコクの中間層が反首相に大きく流れ、反政府集会に数万人が集まるようになった。これがクーデターの原因だったかどうかはさておき、少なくともクーデターを起こす口実を与えたことになる。  クーデターを起こした軍部の言い分は、(1)タクシン政権が国家を分断し、(2)汚職を蔓延させ、(3)王室を軽視した、というものだ。  (1)は貧富の差をテコに使った政策で政治基盤を固めた結果であり、(2)は強固な政治基盤を背景に、裁判所や汚職防止撲滅委員会といった独立機関を骨抜きにし、チェック&バランス機能を失わせたためだろう。前首相自身を始め、閣僚に財閥代表を多く取り込んだ結果、利益誘導に歯止めが利かなくなった面もある。(3)は閣僚に元左翼学生活動家が多いことが、何かを暗示しているのかもしれない。前首相と元学生活動家の閣僚らが、国王の権限縮小を画策しているという報道が過去にあった。  タクシン氏が目指したのは、師と仰ぐリー・クアンユー、、マハティール氏の開発独裁体制だったのだろう。野党の存在を制度的に封殺し、万年与党が長期間安定した経済開発を行う。しかしそれは、主なき国の話。タクシン氏が6月末に「憲法外のカリスマ的人物が騒乱を起こそうとしている《と挑発した際、当の「カリスマ《と目されたプレム議長は「軍は馬、政府は騎手、馬主は国民・国王《と言い放った。今回の結果は、オーナーと勘違いした騎手を馬主が取り替えた、ということかもしれない。


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